
2022年4月13日 中高礼拝 ルカ23:26-43
イエス様が十字架にかけられたとき、その両側で二人の男が一緒に十字架にかけられました。その一人がこう言います。「イエスよ、あなたの王国に入られたとき、私のことを思い出してください」と。
この男の願いに、イエス様はこう答えます。「この日、お前は私と一緒にパラダイスにいることになる。」
イエス様を十字架につけて殺すことを願ったのは、影響力と特権を、つまり「力」を失いたくない、イスラエル社会の中心にいる男たちです。
イエス様を実際に十字架につけたのはローマ帝国の「力」を代表する、そして「力」を行使する軍隊です。これも男たちです。
そして、イエス様と一緒に十字架につけられた二人は、力によってローマ帝国の支配を転覆させようとした男です。
イエス様が生き、そして十字架にかけられた時代、イスラエルはローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国は、「善きもの」、「価値あるもの」は、すべて男から来ると考えている世界であり、「善きもの」、「価値あるもの」が、女性から出ることないと考えている世界です。
‘Virtue’ という英語の言葉があります。日本語で「徳」とか「美徳」と訳されます。この ‘virtue’ の語源はラテン語の ‘virtus’ という言葉です。 ‘Vir’ は「男」で、‘virtus’ というのは文字通り、「男らしさ」のことです。「善きもの」、「価値あるもの」、つまり「徳」や「美徳」は、「男らしさ」に直結しているわけです。そして「美徳の中の美徳」、「最も男らしいこと」は、「戦勝を勝利へと導くこと」です。
これこそが、イエス様が生き、そしてイエス様が十字架にかけられた世界を支える、「もっとも善きもの」、「もっとも重要な価値」でした。
そして、男たちが「価値」を見出さないもの、男たちが忌み嫌うものが「弱さ」とみなされていました。
ところがイエス様は、男が「価値」を認めないもの、男が忌み嫌う「弱さ」の中に、最高の価値を見出しました。
イエス様が宣べ伝え、そして入られる「御国」は、神ご自身が王として治める「神の王国」です。イエス様は、この「神の王国」の中で「最も大切なもの」、「最も重要な価値」は、「仕えることだ」と言われました。
「仕えること」のもっとも中心的は」はしな場面。それは食事です。イエス様は、「神の王国」で最も偉大な者は、「食卓を整えて、給仕する人」だと言ったということです。
「男らしさ」によってではなく、つまり軍隊の力によってではなく、「食卓を整えて、給仕する」ことによって生まれ、互いに仕えることによって維持される「王国」。イエス様の時代にも、そして現代でも、そんな「王国」はどこにも存在しません。
では、「神の王国」の「最も重要な価値」を、イエス様はどこで見出したのでしょうか?「神の王国」で最も偉大な者は、「皆に仕える者だ」とイエス様が言う時、そのロールモデルは、一体どこから来ているのでしょうか?
それは、今日の箇所の中で、嘆き悲しみながらイエス様の後に従って行った女性たちからです。この女性たちこそが、イエス様と弟子たちのために食卓を整え、給仕をし、イエス様の宣教活動を支えたのです。
イエス様は「戦争を勝利に導く」ことに最大の価値を置く「男の論理」が、決して平和を生み出さないことを知っていました。
パラダイス、楽園。それは平和と喜びの完成形です。これを生み出すのは、「食卓を整えて、給仕する女性たち」の中に体現している「最も大切な価値」です。
「男らしさ」が支配する世界に未来はありません。どうか皆さん、「男の論理」を「女の論理」によって乗り越えてください。
そして、暴力によって深く傷ついたこの世界を癒し、平和を作る女性になってください。