4月20日(水)立教女学院中高礼拝 説教

2022年4月20日(水)中高礼拝 ルカ24:1-11

今更、改めて言うまでもないことですがこの学校の教育は、キリスト教という土台の上に立てられています。そしてキリスト教の中心には、復活のキリストがいます。

しかしこの学校の教育の魂であるイエス・キリストへの信仰、キリスト教は、2つの想定外から生まれました。

まず、イエス様が「メシア」かもしれないと思って、イエス様の弟子となった人たちは、誰一人、イエス様が「殺されてしまう」とは想定していませんでした。これが第1の想定外です。

イスラエルの人たちが待っていた「メシア」というのは、今現在の状況に例えて言えば、ロシア軍によって毎日爆撃に晒されているウクライナの人々が、ロシア軍を蹴散らし、プーチン大統領を滅ぼしてくれる英雄の登場を待っているようなものです。

イスラエルの人々は、ローマ軍を打ち倒して、ローマ帝国の支配からイスラエルを解放してくれる英雄を待ち望んでいました。そしてイエス様の弟子たちは、イエス様がその英雄だと思っていたのです。

イエス・キリストへの信仰、キリスト教を生み出した第2の想定外は「復活」です。イエス様の弟子たちは誰一人、「復活」などということが起こると思っていませんでした。

イエス様を十字架にかけた人たちも、イエス様が「メシア」かもしれないと期待をかけていた弟子たちも、イエス様が十字架にかけられて死んだところで、すべては終わったと思っていました。

十二弟子を筆頭に、男の弟子たちは、自分たちの命も危ないかもしれないと恐れて、家に閉じこもって隠れていました。

誰一人、「イエス様は復活するって言ってたじゃないか!復活したかどうか確かめるために墓に行こう!」などとは言いませんでした。

今日の朗読箇所に出てきた、「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア」そして他の婦人たちも、イエス様が復活したかどうか確認するために墓を訪れたわけではありません。

彼女たちは、イエス様の遺体に香料を塗るために墓を訪れたのであって、誰一人墓が空になっているとも、ましてや死んだはずのイエス様が、自分たちの前に現れるとも思っていませんでした。

「そんなこと言ったって、私は復活のキリストに会ったことはないし、復活した人間にあったこともない。そんな話は信じられない。」皆さんがそう思っても当然です。

その点について、1つ、いえ2つだけ触れて、今日のお話を終わります。

イエス・キリストの復活は、観察可能な宇宙の歴史におけるBig Bangとblack holesのような、人類史上の特異点です。

Black holesは宇宙に現実に存在していますが、その内部がどうなっているのか知ることはできません。どうように、イエス・キリストの復活で何が起きたのか、正確に知ることはできません。

けれども、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、4つの福音書に記されている、「復活のキリストに出会った」という証言は、作り話ではありえません。

イエス様が生きていた1世紀のローマ帝国で、女性は法廷で「証人」となることができませんでした。それは、女性の証言は信頼に値しないと見なされていたからです。

ところが、4つの福音書はどれも、復活のキリストの最初の証人は女性であったと告げています。

女性の証言は証言に値しないので、裁判で証拠として採用されない。そんな世界の中で、「最初の復活の証人は女性です」という話を作ってみても、まったく無意味です。

というわけで、この学校の教育の土台であるキリスト教は2つの想定外を経て、復活のキリストが、まず女性たちの前に現れてしまったが故に、想定外に生まれたのです。

墓に行った女性たちに起きたこと。それは私たちにも起こり得ることです。復活のキリストはいつでも、想定外の時に現れます。

皆さんの人生の中にも、きっとその想定外の時が、復活のキリストが現れる時があるはずです。その時には、復活の主の呼びかけに応えてください。