
2022年4月8日(金)中高礼拝 ルカ20:9-19
今朝の福音書朗読で読まれた物語は、寓喩的な物語です。「寓喩」というのは一種の暗号のようなもので、登場人物や舞台装置の背後に、何か別のものが隠されています。
今日の物語の場合、ぶどう園の主人、ぶどう園の所有者は神様、ぶどう園はイスラエル、ぶどう園の持ち主が遣わす僕たちは旧約聖書の預言者です。そして、主人の息子はイエス様であり、農夫たちは、イエス様を抹殺する機会をうかがっている律法学者たちや祭司長たちです。
しかし、今日の物語は、私たちと、私たちが生きるこの世界の問題に、そのまま当てはまります。
私たちは、神様が造られた世界で生きています。この世界は神様のものであり、私たちは世界の所有者ではありません。
しかし、今日の物語の農夫たちと同じように、私たちはあたかも世界の所有者であるかのように振る舞い始めます。
使用人に過ぎない農夫たちが、ぶどう園の所有者のように振る舞い始めるのは、遠いところに旅に出た、ぶどう園の持ち主のことを思い出さなくなるためです。農夫たちがぶどう園の実りから報酬を受けて生活できるのは、ぶどう園の持ち主が、農夫たちにその管理を委ね、その実りから報酬を受けることを許してくれたからです。
しかし、持ち主の存在を忘れた農夫たちの心からは、感謝が消えて無くなります。そして、自分たちが所有者になりたいという貪欲が、心を支配し始めます。
同じように、私たちは、神様が造られた世界で、その世界の恵みを受けて生きています。しかし、世界を造られた神様のことを忘れた人間は、自分たちは世界の管理を任された、雇われ管理人に過ぎないことを忘れます。
神様が造られた世界で、恵みによって生かされていることへの感謝を忘れた人間は、世界の所有者になろうとします。
自分が「所有者」だと思う人間は、感謝をしません。そして、自分が「所有者」だと思う人間は、自分が持っているものが多ければ多いほど、大きければ大きいほど、自分は「偉大な人間なのだ」と思い込むようになります。
貪欲に心を支配された人間は、他の人々の命を犠牲にしながら、神様がすべての人を生かすために備えられた世界とその恵みを独占しようとします。
ここに、人間が世界の中で引き起こすさまざまな悲劇の、最大の原因があります。
「自分が所有者だ!」と思う人間が増えれば増えるほど、世界は危険な場所になります。
平和を作るためには、自分は神様から与えられたものを、感謝を持って用いるべき管理人に過ぎないことを知っている人が必要です。
皆さん、暴力が満ち溢れる世界にあって、平和を作る人になってください。そのために、このことを覚えてください。
皆さんに与えられているものは、皆さんのものではありません。 もちろん、それらは、喜んで、感謝して用いるべきものです。
しかし、皆さんが「所有している」と思っているものは、本当は、どれひとつとして、皆さんのものではありません。それは神様から預かったものです。
この学校も同じです。校舎も校庭も、このチャペルも、このパイプオルガンも、すべては神様のものです。どれ一つとして、学校のものではありません。
皆さんは、この日本社会の中で、他の誰よりも多くのものを神様から預かり、管理する立場にいます。
皆さんほど多くのものを神様から委ねられた10代の女性は、世界にもそうそういません。
しかし皆さんにそれほど多くのものが委ねられているのは、皆さんがそれを独占するためではありません。正しく管理し、感謝をもって用い、そして何よりも、委ねられたものをもって人々に仕えるために、皆さんには多くのものが委ねられているのです。
与えられた恵みを正しく管理し、感謝をもって用い、人々と分かち合う。その道が、イエス・キリストです。
平和を作る人となるために、皆さんの内に益々、イエス・キリストが形作られてゆきますように。