
2022年4月24日(日)復活節第2主日
使徒 5:27-32; 黙示 1:4-8; ヨハネ 20:19-31
私たちは先週の日曜日、3年ぶりに共に集まり、しかも平和の内にイースターを祝う、大きな恵みに与りました。
コロナ禍によって、「当たり前のこと」が当たり前にできないことを経験している私たちは、「当たり前」で、何気ない日常が、どれほど大きな神様の恵みであり、祝福であるかということを、改めて学んでいます。
西方教会は1週間早く、先週の日曜日に復活日を祝いましたが、ユリウス暦に基づく東方教会は、今日、イースターを祝っています。
しかし皮肉なことに、死に対する命の勝利と、暴力の支配に対する互いに仕え合う平和の勝利を祝うべき時が、ロシア正教会と結託する権力者によって、世界が核戦争の脅威に晒される時となってしまいました。
平和を作るには忍耐と、多くの時間と、知恵とを必要としますが、戦争は一瞬でそれを破壊します。私たちは今改めて、平和の尊さと傷つきやすさを目の当たりにしています。
今朝の福音書朗読の中には、弟子たちが恐れて家に閉じ籠り、隠れていた様子が描かれています。彼らは、自分たちも「テロリストの一味」として捕らえられ、殺されてしまうかもしれないと恐れていたのです。
2017年に私がマーガレット教会に赴任してきて直ぐのことだったと思いますが、説教の中で「イエス様はテロリストとして十字架につけられた」と言った瞬間、聖堂の中にざわめきが起こったのを、今もよく覚えています。「平和の福音を告げ知らせたイエス様が、テロリストとして殺されるなんてあり得ない。」そう思われたのでしょう。
しかし、今ロシアで起こっていることを見てください。
「戦争反対!」、「戦争ではなく平和を!」、そう訴える人々は皆、ロシアの「治安を脅かす者」として警察に捕らえられ、投獄されています。そしてプーチン大統領の強権体制を批判した人々は、ほとんど例外なく、ロシアの治安を脅かす「テロリスト」として、ロシアの治安維持を担う者たちによって殺されてきました。
同じように、イエス様は、ローマ帝国と手を結んでイスラエル社会を治めている者たちから、「治安脅かす者」として訴えられ、テロリストとして十字架につけられたのです。
しかし、恐れる弟子たちの前に、復活のキリストが現れました。復活のキリストの顕現。それは暴力に支えられたこの世の国に対する、仕え合うことの上に建てられるキリストの王国の勝利宣言です。そしてキリストは、父なる神がご自分に注いだ霊、聖霊を弟子たちに吹き込み、こう宣言されました。
「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」(21節)
復活のキリストによって遣わされた弟子たちの使命は、互いの足を洗い合う共同体と成ることによって、神の愛と、まことの平和を世に示すことです。
今朝読まれた福音書のテキストの中には、教会が民族の隔ての壁を超えて、互いの足を洗い合う家族となることによって平和を作り出すための、一つの重要な鍵が隠れています。
19節にはこのようにあります。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。」
「ユダヤ人」という言葉に注目してください。ヨハネ福音書の中で、「ユダヤ人」という言葉はほとんど常に、イエス様に敵対し、イエス様を受け入れない人々に対して用いられています。
イエス様も、イエス様の弟子たちも、ヨハネ福音書の著者も、そしてヨハネ福音書の背後にある教会のメンバーの大部分も、民族的にはユダヤ人でした。それにも関わらず、ヨハネ福音書は(も)、「ユダヤ人」という言葉を、イエス様の敵対者に対してしか用いません。なぜでしょうか?
それは、教会にとって、「民族」はアイデンティティーの中心を成すものではなくなったからです。これは極めて重要なことです。
教会は、イエス・キリストの呼びかけに応えた者たちを構成員とする、神の家族です。この家族の「あるじ(主人)」はイエス・キリストで、この人が教会のアイデンティティーの中心にいます。
教会の歴史の最初期、教会のメンバーの大部分は、民族的にはユダヤ人でした。ユダヤ人クリスチャンの多くは、主流派のユダヤ人から排斥され、時には迫害に晒されました。
イエス様自身も同胞のユダヤ人に訴えられ、殺されように、ユダヤ人クリスチャンも、同胞のユダヤ人から迫害を受けました。
さらに、教会の中に異邦人メンバーが増え続けたことで、主流派ユダヤ人による教会の拒絶は決定的となりました。その結果、教会は、共同体のアンデンティティーの中から、ユダヤ人という民族性を放棄したのです。
これらのことは、私たちに二つのことを教えています。
第一は、クリスチャンにとって、「民族」はアイデンティティーの土台にならないということです。二つ目のことは、「敵」は、異民族・外国人とは限らないということです。
イエス様にとっても、その弟子たちの教会にとっても、 ‘archenemy,’ 最大の敵は、民族的には同胞であるユダヤ人でした。
江戸時代、日本人クリスチャンを迫害したのも、クリスチャン殲滅政策によってクリスチャンを殺したのも、外国人でも異民族でもなく、「同胞の日本人」です。戦時中に、日本人クリスチャンを非国民として迫害したのも、「同胞の日本人」です。
先日、ロシア人でありながらロシアによるウクライナへの軍事侵攻を批判し、ロシアを離れてジョージアに逃れた女性のインタヴューを、ニュースで見ました。
彼女は文字通り国を捨て、ウクライナの戦闘地域からウクライナの人々を脱出させるために懸命に働いています。しかしこの女性は、戦争に反対してロシアを出て、二度と国に戻らないと宣言しているにも関わらず、自分の銀行口座からお金を引き出すこともできず、生活に困窮しています。国を捨ててもなお、彼女は「ロシア人であること」を強要されているのです。
ロシア軍によって苦しめられるウクライナの人々のために祈り、支援をすると共に、このロシア人女性のように、戦争に反対することでロシア政府から迫害をうけるロシアの人々のためにも祈り、支援をすることは、教会にとっての重要なミッションです。
教会が神の国の平和の器となるためには、民族主義とキリスト教を結びつけようとするあらゆる誘惑に抵抗しなくてはなりません。しかし教会は、歴史の中で幾度となく、この誘惑に屈し、平和の器であることを止め、平和の破壊者となってきました。
その最もおぞましい形は、4世紀以降に決定的となった、教会の反ユダヤ主義であり、それは20世紀のホロコーストに結びつきます。
新約聖書時代の教会にとって、民族主義を乗り越えるための鍵であったものが、4世紀以降の教会によって、反ユダヤ主義を推し進めるための道具として用いられた歴史を、私たちは決して忘れてはなりません。
特定の民族とキリスト教的なるものを結びつけるとき、そこには必ず、他のある特定の民族に対する憎しみが生まれます。民族主義的キリスト教は、必ず他民族に対する憎悪を生むのです。
願わくは、イエス・キリストの息吹が聖マーガレット教会を導き、民族の隔ての壁を乗り越え、互いに足を洗い合い、神の国の平和を生きる、多民族共同体としてくださいますように。