4月27日(水)立教女学院中高礼拝 説教

2022年4月27日(水)中高礼拝 ヨハネ20:19-31

今日の聖書箇所は、恐怖に怯えて隠れている弟子たちの前に、復活のキリストが現れた場面です。

使徒と呼ばれる11人の男の弟子たちは、イエス様が捕らえられた時、イエス様を置いてみんな逃げてしまいました。彼らは、自分たちも捕らえられ、命を奪われるかもしれない。そう恐れ、怯えていたのです。

今日の箇所に描かれているのは、非常にカッコ悪い、みっともない男の弟子たちの姿です。ところが、そのみっともない、カッコ悪い男の弟子たちの前にも、復活のキリストが現れてしまいました。

ちなみに、これはどんなに強調してもしすぎることはないことですが、イエス様の弟子たちは誰一人、十字架の上で死んだイエス様が復活するとは思っていませんでした。ところが、どういうわけか、甦らされたイエス様が出てきてしまいました。

その結果、彼らは自分たちの期待や願いと全く無関係に、キリストの復活を証しする人、証人になってしまいます。むしろ、復活の証人に「されてしまった」という方が正確かもしれません。

しかし、なぜか理由はわかりませんが、11人の男の弟子たちの中で、たった一人、トマスだけが、他の10人と別行動をしていました。そのため、トマスは復活のキリストに会うことができませんでした。10人の弟子たちは、「復活のキリストが現れたんだ!」と大喜び伝えます。しかしトマスは、その話を信じることを頑なに拒みます。そして、こう言い放ちます!

「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

このトマスの前にも、復活のキリストが現れました。彼は自分が要求した証拠確認を実行に移すことなく、目の前に現れた方が、復活のイエス・キリストであることを認めました。すると、復活のキリストがトマスに向かってこう言います。

「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と。

トマスは他の10人の男の弟子たちよりも遅れて、復活のキリストを認めました。しかし、トマスだけが、復活のキリストを見たから信じたわけではなく、残りの10人の男の弟子たちだって、復活のキリストが現れてくれたから信じたわけです。トマスだけが特別疑り深かったわけではありません。

実は、「見ないのに信じる人は、幸いである。」この言葉は、復活のキリストに直接に出会うことはなくても、復活のキリストを信じるようになる人への祝福の言葉として語られているのです。

そして、私自身も、復活のキリストを見たことがないのに、信じるようになった一人です。

もしかすると皆さんの中には、「実際に見てもいないのに信じるなんて変じゃない?」と思う人もいるかもしれません。しかし、皆さん、よくよく考えてみてください。皆さんが、「知っている」と思っていることのなかで、「実際に見たことがある」ものがどれほどありますか?

私はブラックホールを直接見たことがありません。それでも、その存在を信じています。私は、遺伝子の二重螺旋構造を直接電子顕微鏡で見たことはありません。しかし信じています。残念ながら、私はCERNの加速器を訪れて素粒子やクオークやグルオンの発見に立ち会う特権に恵まれませんでしたが、それらの存在を信じています。

実は、私たちの「知っている」と思っていることは、突き詰めると「信じていること」とイコールです。究極的には、知っていることと信じていることは区別がつきません。より厳密に言えば、すべての知っていることは、信じていることに帰結します。

大切なことは、正しく疑い、「根拠をもって信じる」スキルを身につけることです。それはたやすいことではありません。

皆さんがこの学校で学ぶ時が、正しく疑い、根拠を持って信じるスキルを身につけるときとなりますように。

そのスキルを身につけることが、見ることのできない神を認め、復活のキリストに出会うための良き備えとなりますように。