






2022年5月1日(日)復活節第3主日
使徒 9:1-19a; 黙示 5:6-14; ヨハネ 21:1-14 (19)
今朝の福音書朗読として読まれたヨハネ福音書21章1節から14節と、今年の2月6日、顕現後第5主日に読まれたルカ福音書5章1節から11節には、非常に良く似たエピソードが含まれています。
12使徒に名を連ねる漁師たちが、夜通し仕事をしても何も獲れませんでした。しかし、絶対に魚が獲れないような時間帯に、イエス様が命じた通りに網を下ろしてみると、網が破れそうなほどの大漁になりました。そんなお話です。
非常に良く似たエピソードが、ルカ福音書ではイエス様の宣教活動の初めに置かれていますが、ヨハネ福音書では、イエス様の復活後に位置付けられています。しかし、イエス様の宣教活動の最初か、あるいは復活後かの違いはあっても、二つのエピソードは物語の中で同じ役割を担っています。それは、ナザレのイエスをキリストとして現す、顕現 epiphanyの機能です。
ルカ福音書の方では、思いがけない大漁を経験した後、シモン・ペトロとゼベタイの子ヤコブとヨハネは、家業をほっぽり出して、イエス様と一緒に旅を始めてしまいます。
今日の福音書朗読では、シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ナタナエルとゼベダイの子たち、更に二人の弟子が夜通しの漁を終えた夜明け頃に、イエス様が湖畔に立たれます。しかしこの時にはまだ、彼らはそこに立っているのがイエス様だとは気づいていません。
面白いことに、イエス様が弟子たちに「子たちよ、何かおかずになる物は捕れたか」と言われたときも、更に、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れるはずだ」と言われた時にも、弟子たちは自分たちに話しているのが誰なのか気づいていません。弟子たちが、自分たちの前に現れた男が復活の主だと気づいたのは、全く予想外の大漁に見舞われたときでした。
そして、今日の第一朗読も、後にパウロとなるサウロに、復活のキリストが現れる、顕現の物語です。福音書朗読の顕現物語と、第一朗読のサウロに対する復活のキリストの顕現の物語には、二つの共通する要素があるのではないかと思います。
それは「失敗」と「予想外」です。
師匠が捕らえられたときに逃げ出した弟子たちは、かつて成功を収めていたビジネスに戻ります。ところが過去の栄光の再現とはならず、夜通しの漁は徒労に終わります。
サウロはダマスコに行って、ナザレのイエスがメシアだと告白する者たちを引っ捕えて、力づくで「正しい道」に立ち戻らせようと旅に出ます。しかし、目的地にたどり着く前に目が見えなくなって、計画は失敗に終わります。更に、神に喜ばれることだと確信して行っていたことが、実は神の御心に逆らうことだという根本的な失敗まで突きつけられます。
しかし、シモン・ペトロも、ディディモと呼ばれるトマスも、ナタナエルとゼベダイの子ヤコブとヨハネも、他の二人の弟子も、そしてパウロもみんな、失敗の中で復活のキリストに出会います。
そして多分、同じことが、私たちが神様に出会い、イエス・キリストに出会う時についても言えるのではないかと思うのです。私たちも、どん底にいるとしか思えないような「失敗」の中で打ちひしがれているときにこそ、神に出会い、イエス・キリストに出会うのではないでしょうか。
私が神様と出会った時、イエス・キリストの弟子として生きようと思った時も、人生のどん底にいるようなときでした。
中学校で不登校になり、学校に行かない間に、もともと嫌いだった勉強が更にわからなくなりました。かろうじて学校に戻ってみても、授業はまったくわかりません。小学校の成績表も中学校の成績表も燃やしてしまったので確認はできないんですが、中学3年の1学期の成績は、体育を除いてすべて1だったと思います。中学の同級生が、「マンガでしかオール1は見たことがない」と言っていたことを、今もよく覚えています。
私の場合も、イエス・キリストに出会ったのは、自分の人生の中でもっとも暗く、誰にも見られたくないほど惨めなときでした。更に、イエス・キリストに出会った後に、全くの「予想外」が私に襲い掛かりました。
洗礼を受けようかと考え始めた頃、私の中にはたった一つ、大きな不安がありました。そして、こんな風に祈っていました。「神様、私は喜んでイエス様の弟子として歩みます。教会の中で、自分ができることは何でもします。ですから、どうか神学校にだけは行かせないでください。」
私が洗礼を受けた教会では、神学校というところで要求される勉強がどれほど過酷なものかということが、ある種の伝説のように語り継がれていました。特にギリシア語とヘブライ語は死ぬほど大変で、教科書が英語なので、英語のできない学生は寝る暇もないと言われていました。
中学校でドロップアウトして、体育以外すべての科目で1を取っていた私にとって、神学校の勉強ついて聞かされることは、どんなホラー映画を見るよりも恐ろしいことでした。ですから、「自分を神学校に行かせないでください」という祈りは、本当に切実なものでした。
そもそも、危うく最終学歴が「小卒」で終わろうとしていた私にとっては、神学校に行って教会で働くなどということは、絶対にあってはならない話でした。ところが、どこで、何をどう間違ったのか、私は21歳のとき、最初の神学校に行くことになりました。しかも神学校に入って以降、自分の行き先がどこなのかわからないまま、私はここまで旅を続けてきました。
今、この時から、過去のことを振り返ってみても、自分がなぜここにいるのか、なぜ私がマーガレット教会の牧師をしているのか、さっぱりわかりません。過去30年間を振り返ったとき、そこには「予想通り」と言えるようなことは何一つありません。すべてが予想外でした。
それでも今、主が私をここまで導いてくださったことに、感謝しています。聖マーガレット教会に遣わしてくださり、牧師として働くことを許してくださっていることに、感謝しています。
今日は、教会に足を踏み入れて、イエス・キリストとの関係において、もう一歩先に進むべきかどうかと悩んでいる方に向けて一言お話をさせていただいて、話を終わることにいたします。
ぜひ、勇気を持って、イエス・キリストと共に歩む一歩を踏み出してください。イエス様は、あなたを「予想外」のところに連れて行かれます。しかしイエス様が連れて行かれる予想外のところには、予想外の恵みと、祝福と、予想外の喜びがあります。
「まだキリスト教のことも、聖書のこともよくわからない」と思っても、ぜひ、わからないまま、一歩を踏み出してください。むしろ、わかってから洗礼を受けようと思ってもダメなんです。
これは何も、キリスト教の信仰に限った話しではありません。私たちが何かを学習し、身につけるプロセスも同じです。ギターの弾き方がわかってからギターを手に取ろうと思ったら、いつまで経ってもギターを弾けるようになりません。泳ぎ方がわかってからプールに入ろうと思ったら、絶対に泳げるようになりません。
信仰の歩みも同じです。
すでに洗礼を受けて、クリスチャンとして歩んでいる方々にも、一言だけ言わせていただきます。
イエス・キリストは、私たち一人ひとりの人生の中で、現れては消え、消えては現れます。復活のキリストは、思わぬ時に現れ、そして予想もしないところへと私たちを導こうとされます。
予想外のキリストの声を聞いた時、その声に従ってください。その先には、主の恵みと、祝福と、予想外の喜びが待っています。