復活節第4主日 説教

2022年05月08日(日)復活節第4主日   Acts 9:36-42; Revelation 7:9-17; John 10:22-30

イースターから今日まで、毎週続けて日曜日に礼拝を献げてこられた方は、今日の福音書朗読を聞いて、違和感を覚えたのではないかと思います。

イースターから復活節第3主日までは、復活のキリストが弟子たちに現れる場面が福音書朗読として読まれました。

ところが今朝のヨハネ福音書10章22節から30節は、イエス様が十字架にかけられる前の場面です。しかも、今朝の福音書朗読の直後、31節から明らかなように、イエス様と敵対する人々が、イエス様を直接、その場で殺そうとする、そういう場面です。

あたかも、イースターの朝から時間が巻き戻されて、イエス様が再び十字架へと続く道を歩いていかれるかのような、奇妙な感じがします。恐らく聖書日課を編纂した人々は、「イエス・キリストは復活の命を与える良き羊飼いである」というところに焦点を当てたかったのでしょう。

ヨハネ福音書の著者、あるいは編集者が、今朝の朗読箇所で、イエス様を「永遠の命を与える羊飼い」として示そうとしているということは、誰が読んでも容易にわかります。しかし、そこで言われていることが明白なだけに、素朴な疑問も湧いて来ます。

イエス様がメシアで、永遠の命を与える羊飼いであるなら、一体どこに、その方を信じない理由があるんでしょうか?もし、どこかに永遠の命を与える人がいるとわかったら、世界中の人がその人を探して、永遠の命を得ようと躍起になるんではないでしょうか?

しかし、十字架の上で殺されたイエス様が復活して弟子たちに現れ、その弟子たちがキリストの復活を証言してもなお、大多数のユダヤ人はイエス様を受け入れませんでした。

ヨハネ福音書全体には、ある種の決定論が貫かれています。決定論というのは、すべての結果が事前に決まっているということです。イエス・キリストを受け入れる者は神から出ているけれども、彼を受け入れない人は悪魔から出た者で、もともとキリストの羊ではないのだ。そう説明されます。

しかし現実の世界は、二元論的決定論に従って回っているわけではありません。決定論は常に、すでに起きた事柄に対する疑似説明としてのみ機能します。決して、世界や人間の現実を理解する助けにはなりません。

しかし、「メシアを待ち望んでいたユダヤ人」の大部分が、イエス様をメシアとして受け入れることはなかったということは事実です。

この現実から、私たちが学ぶべきことがあるのではないかと思うのです。

救い主の到来を期待していたユダヤ人の目を塞ぎ、イエス様を通してなされる神の働きを見えなくさせたもの。それは一体何でしょうか?彼らの耳を塞ぎ、イエス様の語る言葉を聞けなくさせたものは何でしょうか?

それは旧約聖書と神殿という、強力な二つの伝統でした。イエス様の時代、神殿はイスラエルの政治、経済、宗教、文化、すべての中心でした。

紀元前2世紀の前半以降、神殿をコントロールする者が政治を支配し、神殿をコントロールする者が経済を支配して莫大な富を集め、そして人々の信仰を支配していました。

しかしイエス様は、エルサレム神殿を退けました。神殿は神と人とが出会うところとされていました。しかし、イエス様は、自分は神と一つであり、自分を通して人は神と出会うのだと主張しました。

こうしてイエス様は、エルサレム神殿という巨大な伝統から逸脱しました。

さらに、イエス様は、同時代のいかなる立場のユダヤ人から見ても、「律法をないがしろにする」男でした。この点はどんなに強調してもし過ぎることはありません。

イエス様の時代のユダヤ教は、決して一枚岩ではありませんでした。そこには大きな多様性がありました。ユダヤ教徒は皆、律法は神の掟だと信じていました。しかし律法を構成する書物が何かについてすら、統一見解はありませんでした。

さらにユダヤ人たちは、神に関する理解においても、律法の解釈においても、皆が同じ結論に至らなければならないとは思っていませんでした。

それにも関わらず、どのような立場のユダヤ人にとっても、イエス様は「律法を否定する男」だったのです。

塩、光、雀、道、門、羊と羊飼い、ぶどうの木、ぶどう園、労働者、からしだね、ぶどう酒、皮袋、パン種、毒麦、食事、パーティー、結婚披露宴。これらは4つの福音書の中で、イエス様が教えたり、神の国について語る時の題材ですが、人々の日常生活に根ざした、ありふれたものばかりです。

イエス様の教えは特異で、「律法」の書物の解説ではありませんでした。

教会の反ユダヤ主義がナチス・ドイツによるホロコーストへと導いた、この重大な過ちへの反省から、第二次世界大戦以降の神学の世界では、イエス様がユダヤ人であったということが強調されるようになりました。

もちろんイエス様はユダヤ人ですし、イエス様の弟子たちも皆ユダヤ人でした。しかし、イエス様がユダヤ人であったということを強調するあまり、律法に基づくユダヤ教とナザレのイエスが語った神の国の福音との間に、どれほど大きな断絶があるかということが、ほとんど語られなくなりました。

しかし、当時のユダヤ教の二つの巨大な伝統、神殿と律法から、どれほどナザレのイエスが断絶していたのかが見えなくなれば、なぜイエス様が、互いに立場の違うイスラエル社会の指導者たちから寄ってたかって反対され、抹殺すべき存在と見なされたのかが理解できなくなります。

旧約聖書と神殿。この二つの伝統こそ、イエス様を通して働く神を見えなくして、イエス様が語る福音を聞こえなくさせたのです。

そして、ここには私たちへの警告もあります。教会は歴史の中で、イエス様を退けたユダヤ人と同じ過ちに陥りました。新約聖書以降の伝統に従って歩めば、教会はキリストの声に聞き従うことになると考えるようになったのです。

しかし実際には、新約聖書に従って、使徒たちの伝統に従って歩んできた教会が、数限りない過ちを犯してきました。

新約聖書が私たちの目を塞ぎ、教会の伝統が私たちの耳を塞ぐことが、往々にしてあるのです。

もちろん私たちはこれからも、旧約聖書を読み、新約聖書を読み、教会の伝統から学び続けます。しかし旧約聖書も、新約聖書も、教会のいかなる伝統も、「キリストの声そのもの」ではありません。ですから、旧約聖書も、新約聖書も、教会の伝統も、教会の導きの星となることはできないわけです。

では何が、教会の歩みを導くのでしょうか?

それは、新約聖書無しに始まり、新約聖書無しに歩んでいた使徒たちの教会を導いたものです。

それは聖霊です。聖霊こそが、イエス・キリストの声に対して耳を開き、イエス・キリストの業の中に神の働きを見させてくれるのです。だからこそ私たちは絶えず、聖霊の導きを祈り求めます。

願わくは、イエス・キリストを通して働かれた神が、聖マーガレット教会を聖霊によって導き、キリストの声に聞き従って進んでゆく羊の群れとしてくださいますように。