5月11日(水)立教女学院中高礼拝 説教

2022年5月11日(水)中高礼拝 John 10:22-30

4月17日のイースターの週から先週までは、復活のキリストが弟子たちに現れる場面が、朝の礼拝の中で読まれてきました。

ところが今週に入って読まれているヨハネ福音書10章22節から30節は、イエス様が十字架にかけられる前の場面です。

すでに十字架の上で死んで復活されたイエス様が、もう一度十字架にかけられようとしているかのような違和感を感じるかもしれません。

礼拝で読まれる聖書箇所を定めているのは聖書日課と呼ばれるものです。恐らく、これを編纂した人々は、「イエス・キリストは復活の命を与える良き羊飼いである」というテーマが先にあって、それに基づいてこの箇所を選んだのでしょう。

しかし、「復活の命を与える良き羊飼いであるイエス・キリスト」に関して、非常に奇妙な事実があります。

イエス様は十字架の上で死なれましたが、復活して弟子たちに現れました。復活のキリストに出会った弟子たちは、殺されてしまったイエス様が復活し、自分たちの前に現れたことを証します。そして、メシアの到来を待ち望んでいたユダヤ人に、ナザレのイエスを救い主として受け入れるようにと勧めます。

ところが、大多数のユダヤ人は、ナザレのイエスをキリストとして、自分たちが待ち望んでいたメシアとして受け入れることを拒否しました。

なぜでしょうか?それは、イエス様が神について語ったことが、自分たちが受け継いできた「伝統」と、自分たちが慣れ親しんできた「教え」と、あまりにも違ったからです。

一言で言えば、イエス様を拒否した人々は、自分たちが受け継いできたもの、自分たちの「伝統」を越えるものは、「間違っている」と判断したのです。

ここには私たちが学ぶべき、重要な教訓があります。人間は、知的営みの成果を蓄積し、それを土台として生活を築きます。この土台が伝統と呼ばれます。伝統の上に生活を築くのは人間だけです。

例えば、江戸時代には、私たちが知っているような学校も学問もありません。学校という教育制度を日本にもたらしてくれたのは、宣教師たちですが、宣教師たちが学校制度というものを日本で作ったわけではありません。

大学を頂点とする教育制度は、西洋世界で、教会の中で生まれ、発展し、継承されてきました。宣教師たちはそれを携えて日本にやって来て、日本という土壌に移植したのです。

私たちが今日も、何事もないかのように、当たり前に学びをすることができるのは、宣教師たちが残した伝統の上に立っているからです。

しかし、真理は常に伝統を超え出ます。真理がいかなる伝統をも超えている以上、どれほど優れた伝統も、常に未完成です。ましてや、真理の源である神は、私たちのすべての伝統と、あらゆる知識を遥かに超えています。

「真理」が伝統を超えており、真理の源である神があらゆる伝統と知識を遥かに超えた存在であるということは、どれほど優れた伝統も、不完全で、暫定的なものに過ぎないということです。

伝統を絶対化し、伝統を守ろうとする人は、成長と発展を妨げます。伝統は、「守ろう」と思った時に死ぬのです。

大切なことは、伝統を生み出した力、真理への憧れに目を向けて、伝統を更新し続けることです。

真理への憧れに突き動かされ、伝統を更新するプロセスの中で、私たちは真理への憧れを心の中に生み出す方、神に出逢います。

この学校の伝統を生み出した力、真理への憧れが皆さんの中で成長し、皆さんが真理の根源である神に出逢う時が訪れますように。