
2022年5月15日(日)復活節第5主日 Acts 11:1-18; Revelation 21:1-6; John 13:31-35
今日の福音書朗は、イエス様が弟子たちの足を洗った後、イスカリオテのユダがイエス様を引き渡すためにその場からいなくなって、ユダ以外の弟子たちにイエス様が話をしているとう場面設定になっています。
ヨハネ福音書には、共観福音書と呼ばれるマルコ、マタイ、ルカ福音書に描かれるような最後の晩餐の場面はありません。最後の晩餐の代わりに、イエス様が弟子たちの足を洗ったエピソードが語られます。弟子たちの足を洗い終えたイエス様は、弟子たちに向かってこう命じます。
「主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ。」(13:14, 15)
13章で最後の晩餐の代わりに洗足について書いたヨハネ福音書の原著者は、福音書の最初の受取人であり最初の読者である教会に、聖餐式ではなく、洗足を行うようにと命じています。
しかし、ヨハネ福音書のイエス・キリストが「するように」と命じている洗足は「サクラメント」にならず、教会の歴史の中から実質的に消えていきました。
この単純な事実は、イエス・キリストが弟子たちに与えた「新しい戒め」を生きることに、教会がどれだけ失敗してきたかを物語っています。なぜなら、今朝の福音書朗読に出てくる「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という「新しい戒め」は、「あなた方も互いに足を洗い合いなさい」という戒めだからです。
そしてヨハネ福音書のキリストはこう言います。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう。」(13:35)
イエス・キリストによって呼び集められた私たちが、互いに愛し合うなら、そこに居合わせるまだキリストの弟子ではない人々も、私たちがキリストの弟子であることを知るようになる。そう言うのです。
なぜでしょうか?それは、私たちが互いに愛し合うとき、キリストがご自分を現してくださるからです。
しかし、逆も真です。イエス・キリストに呼ばれた人々が、「新しい戒め」を捨てるなら、「互いに愛し合う」ことを止めるなら、キリストは現れなくなります。
ここに神の働きの不思議さがあります。神は、ご自分の御心を、ご自分一人でなさろうとはされないのです。むしろ、人々に呼びかけ、呼びかけに応える人たちを通して、働きを進められます。
なぜ神がそんなまどろっこしい道を選ばれるのか、完全に理解することも、説明することもできません。しかし一つのことが確かに言えると思うのです。
神が、人々に呼びかけ、その呼びかけに応える者たちを通して御心を成就しようとされる最大の理由は、神が愛であられるからです。
「呼びかけ、応答を待つ。呼びかけられ、その呼びかけに応える。」
そのような関係が成立するためには、呼びかけに応える者の側に、自由が無くてはなりません。呼びかけられたとしても、その呼びかけに応えない余地があるところにしか、自由はありません。そして、その自由がないところには、愛はありません。
女性にプロポーズしようとしている男性が、「あなたを愛しています。結婚してください」、そう言いながら女性に銃を突きつけていたとします。たとえ男性が「愛」という言葉を口にしていたとしても、そこには愛はありません。
呼びかけに応えない余地を残さない呼びかけは脅迫に過ぎません。しかし神は愛であるが故に、私たちに自由を与え、神の呼びかけに応えないことをも受けいれておられます。
それは神ご自身が、失敗のリスクを引き受けているということでもあります。なぜなら、愛と自由には必ず、計算不可能性が内在しているからです。それは、神ご自身も、呼びかけを聞いた人々がどう応えるかはわからないということです。
神ご自身が愛なる方として、愛そのものとして現れるためには、失敗のリスクと計算不可能性が絶対不可欠な条件なのです。これは同時に、私たちが極めて奇妙で、そしてとてつもなく大きな使命を担っていることを意味します。
まず、イエス・キリストは、キリストの弟子たちの群れが、「新しい戒め」に従って、互いに愛し合うときにしか現れません。キリストが現れるか、現れないかは、私たちに委ねられているのです。なんとリスキーなことでしょう。
さらに、イエス・キリストが現れなければ、愛なる神も現れません。そして、イエス・キリストが現れず、愛なる神が現れないとき、愛によって始められ、完成へと導かれる天地創造の業が躓きます。
ウクライナに対するロシア軍の攻撃を祝福し、核兵器を祝福する教会が、イエス・キリストの姿を現すことはありません。
キリストは「互いに足を洗い合う」ときに、互いに仕え合うときに現れるのであって、軍事攻撃の中にキリストが現れることなどありません。戦争を祝福する教会によって、神の救いの業は躓き、天地創造は停滞します。
この世の成功モデルに従えば、自分のしたいことをするために、人を使えるようになることこそが成功です。自分のために食事を作らせ、給仕をさせ、靴を磨かせ、トイレの掃除をさせ、人を働かせて自分の願望を実現できる者こそ成功者と呼ばれます。
しかし、キリストの弟子の群れの中では、教会の中では、この世の成功は最悪の失敗なのです。なぜなら、もし教会が仕えてもらうことを期待する人間で溢れたなら、そこにキリストは現れないからです。
イエス・キリストが弟子たちに与えた戒めの「新しさ」は、「愛し方の新しさ」の中にあります。
イエス・キリストが弟子たちに示した愛は、足を洗い合うことであり、仕え合うことであり、そして互いに命を与え合うことです。
願わくは、聖マーガレット教会が、神様らか委ねられた賜物をもって仕える人に溢れ、いつもキリストが現れる群れとされますように。
そして、聖マーガレット教会に訪れるすべての人々が、互いに仕え合う私たちの中に現れる、イエス・キリストに出会いますように。アーメン