復活節第6主日 説教

2022年5月22日(日)使徒14:8-18; 黙示21:22-22:5; ヨハネ14:23-29

今日、復活節の第6日曜日は、昇天日前の日曜日に当たります。昇天日は、復活日を1日目と数えて40日目の木曜日に当たります。

そして、今朝の福音書朗読にはこのような言葉がありました。「28 『私は去っていくが、また、あなたがたのところに戻って来る』と言ったのを、あなたがたは聞いた。私を愛しているなら、私が父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父は私よりも偉大な方だからである。」

昇天日前のこの日曜日の福音書朗読としてヨハネ14:23-29が選ばれているのは、この箇所がイエス様による昇天の予告と捉えられているからです。しかしヨハネ福音書にイエス・キリストの「昇天」の記事はありません。ついでに言えば、ヨハネ福音書には聖霊降臨もありません。

「昇天」と「聖霊降臨」の話は、「ルカの書物」にしかありません。「ルカの書物」というのは、『ルカによる福音書』と『使徒言行録』のことで、この二つの書物はもともとは、一つの大きな書物の前編と後編でした。しかし、ルカ福音書には、イエス様が「昇天」について予告している場面というのはありません。

ヨハネ福音書に「昇天」はないのに、ヨハネ福音書が「昇天」の予告として読まれている。これは、教義が定められると、教義がテキストの中に読み込まれて、テキストそのものが読まれなくなる、典型的な例です。

さて、ヨハネ福音書の中に「昇天」の話は一切ありませんが、ヨハネ福音書とルカ福音書は、同じ問題に直面して、その問題に対してほぼ同じ解決に辿り着きました。ヨハネ福音書とルカ福音書、より厳密にはそれぞれの福音書の背景にある教会が直面していた問題というのは、復活のイエス様はもう現れないということです。

十字架の上で殺されたイエス様を父なる神は甦らせ、復活のイエス・キリストが弟子たちの前に現れました。ところが、復活のキリストの出現は、長くは続きませんでした。

4つの福音書と使徒言行録を読んでみると、復活のキリストの出現が2ヶ月を超えて続いたということはなさそうです。

4つの福音書の中で、最初に書かれたマルコ福音書の著者にとっては、復活のキリストが現れなくなったことは問題になりませんでした。というのは、マルコ福音書の著者は、イエス・キリストがすぐに帰ってくると信じていたからです。

しかしルカ福音書とヨハネ福音書が書かれるのは、そこからさらに20年以上後のことです。「イエス・キリストは、私たちを世に残したまま、どこに行ってしまったのか」ということが大きな問題となっていました。この問題に対する答えが、「キリストは今、父のもとにおられ」、「キリストの弟子たちは聖霊によって導かれる」ということでした。

今朝の福音書朗読の中で、イエス様はその場にいる弟子たちに語っていることになっています。しかし現実には、これらの言葉は、復活のキリストが現れなくなった後に世に残されたキリストの弟子たちの群れ、ヨハネ福音書の背後にある教会に向けて語られている慰めの言葉です。

「イエス・キリストは再び戻ってくると言ったって、すでに父のもとに帰ってしまって、今は私たちと一緒にいないではないか。私たちは親に捨てられた孤児のようじゃないか!」そう感じている弟子たちの群れに対して、ヨハネ福音書のイエス様は言います。

「そうじゃない。あなたたちが私の語った言葉、私が与えた新しい掟に聞き従って歩むとき、私と父は共に、あなたがたの間にいるんだ」と。

しかも、弟子たちがイエス様の言葉、キリストの新しい掟に従って歩むとき、恐れから解放され、世が与えるように与えるのではない平和、まったく新しい、本当の平和が弟子たちの間に訪れる。そうもイエス様は言われます。

ここで、何よりも大きな役割を担うのは、父なる神がイエスの名によって遣わされる弁護者、聖霊です。

26節で「弁護者」と訳されているのは、‘παράκλητος’ というギリシア語です。この言葉は、新約聖書全体の中で、たった5回しか出て来ません。しかも、ヨハネの福音書の中で4回(14:16, 26; 15:26; 16:7)、ヨハネの手紙一(2:1)の中で1回用いられているだけです。

ですから、この ‘παράκλητος’ という言葉は、ヨハネ福音書の著者の聖霊理解にとって、極めて重要な言葉だということがわかります。さらに言えば、ヨハネ福音書の著者にとっては、 ‘παράκλητος’ なる聖霊こそが、キリストの弟子たちの生活にとって、教会の歩みにとって、すべてのすべてです。

26節で、イエス様はこう言います。「26 しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」これは驚くべき言葉です。

ヨハネ福音書が書かれた時には、マルコ福音書、マタイ福音書、ルカ福音書がすでに書かれていました。ヨハネ福音書の著者が、これらの福音書の存在を知らないはずはありません。しかしヨハネ福音書の著者は、「すでに3つも福音書があるのだかから、私たちはそこからイエス・キリストについて学べば十分だ!」とは思いませんでした。

いえ、それどころか、ヨハネ福音書を書いたクリスチャンは、すでに書かれた3つの福音書を通してイエス・キリストを知ることができると考えていなかったようです。そうでなければ、ヨハネ福音書の著者は、すでに存在している共観福音書の物語の流れを完全に無視して、独自の視点から、全く新しいスタイルで、「イエス・キリストの物語」を書くなどということをしなかったはずです。

ヨハネ福音書によれば、キリストの弟子たちにすべてのことを教え、イエス様が話したことをことごとく思い起こさせてくださる助け主は、27巻の新約聖書ではありません。

ヨハネ福音書のキリストは、「父のもとからあなたがたに与えられる新約聖書は、すべてを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」とは言いませんでした。父なる神が、キリストの名によって遣わしてくださる弁護者、すべてを教え、新しい掟を思い起こさせてくださるのは聖霊なのです。

私たちを、互いに愛し合い、互いに仕え合う群れとしてくれるのは聖霊の力です。軍事力によって戦争と戦争の間に現れる平和とは違う、互いに愛し合うことによって生まれる平和を私たちに与えてくれるのも、‘παράκλητος’ 、弁護者なる聖霊です。

暴力に傷つく世にあって、私たちが互いに愛し合い、キリストの平和を生きる民となるために、父なる神がこの弁護者を私たちの上にも遣わし、すべてを教え、イエス・キリストの語られたことを思い起こさせてくださいますように。