




2022年5月29日(日)使徒1:1-11; エフェソ1:15-23; ルカ24:49-53
私たちは今日の礼拝を昇天日の礼拝として献げています。
昇天日の聖餐式第一朗読は使徒言行録から、福音書朗読はルカ福音書から取られていますが、この二つの本はどちらも同じ著者による作品です。そして、この二つの本は、もともとはルカ福音書を前編、使徒言行録を後編とするひとつの長大な物語でした。
物語が前編のルカ福音書から、後編の使徒言行録へと移るとき、物語の主要登場人物も、イエス・キリストから、使徒たちへとシフトします。このルカ福音書から使徒言行録へ、イエス・キリストから使徒たちへの移行において、橋渡しの役割を担っているのが、イエス・キリストの「昇天」です。
新約聖書に含まれている書物は、教会を襲った巨大な危機の故に書かれました。それは、帰ってくるはずのイエス・キリストが帰ってこないという危機です。聖書学者たちが終末遅延と呼ぶこの危機が無ければ、新約聖書に収められているどの手紙も、どの福音書も、書かれることはありませんでした。
ルカ福音書と使徒言行録の著者も、長大な一つの物語を書くことを通して、教会を襲っている大きな危機に対する「解決」を示そうとしたのです。
「ルカ」が「昇天」として語っていることの中身は、第2朗読で読まれたエフェソの信徒への手紙が語っていることと基本的には同じです。キリストが天に昇られた、それはキリストが父なる神から栄光を受けられたということです。エフェソの信徒への手紙は、それをこう表現しています。
「20 神は、この力ある業をキリストの内に働かせ、キリストを死者の中から復活させ、天上においてご自分の右の座に着かせ、21 この世だけでなく来るべき世にある、すべての支配、権威、権力、権勢、また名を持つすべてのものの上に置かれました。」(エフェソ1:20, 21)
キリストが栄光を受けられた。それはすべての支配、権威、権力、権勢の背後にある力、悪そのものが滅ぼされたということを意味します。
キリストの復活は、霊的な次元において、すでに神が悪と死の力を滅ぼされた証拠である。使徒たちとその直後の教会は、そう信じていました。そして、イエス・キリストが再び来られるとき、悪の力に支えられたすべての権力と支配が駆逐されて、神の支配が、神の国が完成する。それこそ教会が待ち望む、救いの完成のときでした。
ところが、帰ってくるはずのキリストが帰ってこないことで、教会はキリストの復活によって滅ぼされたはずの、「悪の力の復活」を経験することになります。
教会が迫害に直面している。それは、キリストに逆らう勢力が、悪が再び力を行使しているという証拠です。終末遅延の危機は、「キリストによって死と悪の力が討ち滅ぼされた」という教会の信仰を大きく揺さぶることになります。
「悪の力の復活」に脅かされる教会に対して、「ルカ」が提示する解決はこうでした。
「キリストが再びこられる時は誰にも知らされていない。しかし、イエス・キリストが始められ、復活を通し最終的な勝利を約束された悪に対する戦いは、イエス様から教会に託された。」
こうして教会は、イエス様が行われていた業を継続することになります。イエス様の業を教会に行わせる力。それこそイエス様が弟子たちに「待つように」と命じている「父の約束されたもの」、聖霊です。
「ルカ」は、「イエス・キリストを通して働いた同じ聖霊を受けて、教会も彼の救いの業を継続するのだ」と語ることによって、終末遅延に直面する教会に新たな命を吹き込みました。
恐らく「ルカ」は、教会の福音宣教が「地の果て」、「ローマ」に到達すれば、そう遠くないうちに、キリストが再び帰ってきて、神の国が完成すると思っていたのでしょう。
しかし、終末遅延は今に至るまで続いています。キリストの昇天によって、世に残された教会は、今も世に残されたままです。教会は今も、世の波にもまれ、悪の力によって吹き荒れる嵐の中で旅をしているということです。それは、教会は常に、昇天と聖霊降臨の「間」を行ったり来たりする共同体として存在しているということでもあります。
キリストの昇天後に、世に残された弟子たちが直面する「嵐」は、時代によって、場所によって異なります。
1世紀の教会にとって、戦うべき悪の力は、教会の「外」にありました。教会は神のものであり、聖い存在であり、悪の力は常に教会の「外」で働くものとみなされていました。必要なことは、「正しい信仰」から外れた者を注意深く取り除くことだけでした。
しかし、今日の教会が直面しているもっとも深刻な問題は、教会が悪の力となって人々を、そして世界を脅かしているという現実であり、その現実を「クリスチャン」が認めないという現実ではないでしょうか。
5月24日の火曜日、アメリカ、テキサス州の小学校で、18歳の男がマシンガンを乱射し、19名の生徒と、2人の生徒が死亡し、犯人も射殺されました。
銃規制活動団体BRADYによれば、アメリカでは毎年、11万7345人が銃撃され、その内の4万620人が命を落とします。1万5343人が銃による殺人、2万3891人が拳銃自殺、492人が銃の事故による死亡、547人の女性が夫か付き合っている男性によって銃殺され、547人が合法的に、つまり警察の介入によって銃で殺害されます。
2018年から2022年5月末までに、アメリカでは学校を標的にした銃乱射事件が119件起きています。銃による凶悪犯罪が起こる度に、NRA、全米ライフル協会とその支持者たちは、「銃を持つ自由」に制限を課する規制は、社会を安全にすることに繋がらない、銃で武装した警備員を配置することで社会は安全になるとの主張を繰り返します。
そして全米ライフル協会の支持者の大多数は、聖書は神の言葉だと信じる、「敬虔なクリスチャン」です。
5月24日の銃乱射事件からわずか3日後、テキサス州のヒューストンで、全米ライフル協会の大会が開かれ、そこにはトランプ前大統領と、その片腕であったテキサス州選出の議員、テッド・クルーズの姿もありました。
彼らは、銃規制には大量殺人事件を減らす効果は無いとのお決まりのフレーズを繰り返します。トランプが教員を銃で武装させるようにと主張したかと思えば、クルーズは、防弾ガラスや防弾ドアを学校に設置し、学校を要塞化することで学校は安全になると自説を展開します。
銃規制への反対を掲げるクルーズは、自分の子どもは危険な公立学校に送らず、安全な私立学校に通わせています。金で安全を買うことのできるクルーズに抗議して詰め寄る市民に、彼は「武装した悪人を止めるのは、武装した善人だ」と言い放ち、「銃を持つ自由」を擁護します。
そして多くのクリスチャンが、アメリカの多くの教会が、トランプとクルーズと同じように、「信仰によって」、「銃を持つ自由」を擁護しているのです。
ウクライナで続く戦争に、教会が「霊的」な意義与え、その戦いを祝福し、戦死した兵士たちを「聖戦」で命を落とした聖徒として教会が讃えています。
これは、この世の権力体制と同化した教会が、自国の軍隊や警察の行使する暴力を「正義」と見做して祝福するという、4世紀以来続く、強固な教会の伝統です。この伝統の故に、世界中で、多くの教会が、平和の敵となり、人々の命を脅かす存在となっています。
イエス・キリストの昇天後、今日も世に残されている教会が最初に戦うべき「悪」は、教会そのものの中にある悪であり、教会の伝統に巣食う悪の力なのではないでしょうか。
この時代も世に残されている私たちが、イエス・キリストが戦われたように悪の力と戦い、神の国の働きを続けるために、共に聖霊を待ち望みましょう。