






2022年6月5日(日)聖霊降臨日 使徒2:1-21; Iコリント12:4-13; ヨハネ20:19-23
「皆さん、今日はペンテコステです!」何を今更と思われるかもしれませんが、ペンテコステはユダヤ教のお祭りです。
ユダヤ暦のお正月にあたるニサンの月の第14日が、「過越の祭り」の始まりの日です。そこから数えて7週間目、50日目の収穫記念祭がペンテコステです。ギリシア語のπεντηκοστήは、「50番目」という意味です。
そもそも、弟子たちに聖霊が与えられることと、ユダヤ教の収穫祭であるペンテコステとの間には、直接的な繋がりはありません。
福音書朗読で読まれたヨハネ福音書では、復活のキリストが弟子たちに直接、聖霊を与えます。ヨハネ福音書20章22節で、イエス様が弟子たちに吹きかけた「息」、それが聖霊です。ギリシア語で「息」と「霊」と「風」は同じ言葉、 ‘πνεῦμα’ です。
新約聖書の中で、弟子たちに聖霊が与えられることと、ユダヤ教の収穫祭のペンテコステを結び付けているのは「ルカ」だけです。では、なぜ「ルカ」は、弟子たちに聖霊が与えられることと、ユダヤ教の収穫祭とを結び付けたのでしょうか?
イエス様の時代、ユダヤ人の大部分は外国生まれの外国育ちで、この人たちはディアスポラと呼ばれました。「散らされた者たち」という意味です。
ローマ帝国内の主要な都市のどこにでもユダヤ人コミュニティーがあり、会堂が、文字通り、コミュニティーセンターの役割を果たしていました。
パレスティナ生まれでパレスティナ育ちのユダヤ人の方が圧倒的に少なく、ほとんどのユダヤ人はヘブライ語聖書も理解できませんでした。だからこそ、ヘブライ語で書かれた旧約聖書が、ヘレニズム世界の共通言語であるギリシア語に翻訳されるということも起きたわけです。
しかしディアスポラ・ユダヤ人のアイデンティティーは、エルサレムの神殿と密接に結びつけられていました。彼らは神殿税を払い、経済的な余裕のあるユダヤ人は、大きなお祭りのときにはエルサレム詣でをしました。過越祭のためにエルサレムを訪れた人々の中には、ペンテコステのときまで留まっていた者も少なくなかったでしょう。
ディアスポラ・ユダヤ人は異国に生まれ、異国の言葉を第一言語とする人々です。「ルカ」は、聖霊を受けた使徒たちが、離散のユダヤ人に向かって、つまり外国語を第一言語とするユダヤ人に対して、13の言語で福音を語る様子を描いています。こうして「ルカ」は、福音がエルサレムに留まらず、世界中に広がっていくことを予告しています。
これは同時に、世界中に散らされて行くキリストの弟子たちによって、福音が異邦人にも語られ、異邦人が新しい神の民である教会に迎えられるのは、神の御心だということを表しています。人間的な言い方をすれば、異邦人に福音が届けられ、異邦人が教会のメンバーに加えられるようになったのは、まったくの偶然であり、事故のようなものです。
イエス様の最初の弟子たちは皆ユダヤ人であり、復活のキリストの証人も皆ユダヤ人であり、ルサレムに誕生した最初の教会のメンバーも皆ユダヤ人でした。エルサレム教会には、異邦人伝道の計画などまったくありませんでした。使徒たちの教会は、ユダヤ人以外に福音を語るつもりもありませんでした。そのことは使徒言行録11章19節にはっきりと書かれています。
「19 ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。」
エルサレムの教会の人々は、エルサレムを出るつもりなど毛頭無かったのに、迫害の故に、エルサレムから逃れて、難民とならざるをえませんでした。
こうして、キリストの弟子たちが難民となって散らされていった結果、福音はエルサレムの外に運ばれてゆきました。彼らは散らされていった先で新たに小さなコミュニティーを形成し、そこで生活している同胞のユダヤ人に福音を告げました。
ところがここでもおかしなことが起こります。迫害を逃れて逃げ延びた新天地でも、同胞のユダヤ人に対する宣教は、それほど大きな成功を収めることはありませんでした。
ところが宣教の対象として想定されていなかった異邦人の中から、福音を聴き、受け入れる者が次々と起こされたのです。恐らく、福音を最初に受け入れた異邦人たちは、新約聖書の中で「神を畏れる者たち」と言われている人たちだったのでしょう。「神を畏れる者たち」というのは、ユダヤ教の神を礼拝し、ユダヤ人の習慣に従って生活しようとする異邦人のことです。
「約束の民」に属さない自分たちが、イエス・キリストの福音によって「新しい神の民」に加えられ、救いを受ける者とされた。その喜びが、異邦人クリスチャンたちを積極的な伝道者としたことでしょう。
そうして、まったく予定外に、想定外に、福音の種がエルサレムから遠く離れた地に撒かれるのに伴って、教会の異邦人メンバーが増え続けていきました。エルサレムを離れて世界に広がった教会は、いわば難民の共同体となったのです。
難民共同体である教会に、複数の言語を話す人々がいるのは当たり前のこととなり、それは教会の本質に属することとなりました。
今日の11時の礼拝の中で、第1朗読の使徒言行録2章1節から21節が6つの言語で読まれました。
聖マーガレット教会に、6つの言葉でで聖書朗読をする人たちがいる。それは大きな祝福であり、感謝すべきことです。より多くの言葉を話す人たちが加えられることを通して、教会は聖霊によって導かれる教会として成長してゆきます。
使徒言行録に描かれる福音宣教の展開は、福音がエルサレムを出て、イスラエルの民をも超えて、異邦人に広がってゆくプロセスです。それはエルサレムの教会が計画したことでも、予定したことでもありませんでした。
それでは、福音がエルサレムを超えて宣べ伝えられ、異邦人が福音を受け入れ、教会のメンバーとなっていったことは、単なる偶然だったのでしょうか?
「ルカ」は「そうではない」と言います。福音の拡大も、教会に異邦人メンバーが加わることも、想定外であり、予定外であり、人間の目には偶然の成り行きにしか見えません。しかし、神の救いの業の全体は、聖霊によって駆り立てられ、方向付けられている。そう「ルカ」は言いたいのです。
人が風をコントロールすることはできません。いつ吹くのか、どこから、どこに向かって吹くのか、前もって知ることはできません。そもそも、風をコントロールしようと思うことが間違っています。
同じように、私たちは、聖霊が、いつ、どのように働き、どこに私たちを駆り立てるのかわかりません。教会が、聖霊の働きをコントロールすることもできません。
復活のキリストによって生み出され、聖霊によって駆り立てられる教会は、いわば目的地を事前に知らずに旅する帆船、sailing shipのようなものです。
教会は聖霊の風に身を委ねて、その風が運ぶところへと向かって旅をします。そして、風によって導かれていったところで錨を降ろし、しばらく停泊し、そこで予想外の喜びを見出します。しかし、また風が吹き始めたら、その風に吹かれて、まだ見ぬ地に向かって航海を続ける。それが教会です。
聖霊は、次はどこに、私たち聖マーガレット教会を連れていってくれるでしょうか。
期待に胸を躍らせながら、聖霊の風に吹かれて進んでゆきましょう。