6月8日(水)中高礼拝 説教

6月8日(水)立教女学院中高礼拝 ヨハネ14:8-17

今週の日曜日、6月5日は、教会の暦ではペンテコステと呼ばれる祝日でした。ペンテコステは、今朝の聖書朗読の中でイエス様が「別の弁護者」と呼んでいる聖霊が与えられたことを祝う祝日です。

私は聖マーガレット教会の牧師も勤めていますが、牧師として働いていると、人生のどこかでクリスチャンになりたいと思って教会に訪ねてくる人たちの中に、日曜学校とか、この立教女学院のようなミッション・スクールでキリスト教について学んだ人たちがとても多いことに気づきます。

何十年も前に福音の種が蒔かれて、本人はミッション・スクールや日曜学校でキリスト教に触れたことがあることをほとんど忘れていても、福音の種の命は生き続けているのです。

しかし、ミッション・スクール育ちや日曜学校育ちの人たちが洗礼準備を始めて、「聖霊」の話になると、十中八九、「父なる神様のことも、イエス様のこともよくわかるけれど、聖霊がイマイチわからない」という感想を漏らします。

聖霊が非常にわかりにくいのは、実は、私たちが命についてほとんど何もわかっていないのと同じです。

「命についてほとんど何も知らない」と言われて、驚く人もいるかもしれません。「いやいや、自分は命が何か知っている」そう思う人もあるかもしれません。けれども私たちは、命とは何か、ほとんど知らないのです。もちろん、私たちは、自分が「生きている」ことを知っています。自分の隣の友人も、先生たちも、「生きている」ことを知っています。

さらに私たちは、地球上の「命」が、carbon-based life, 炭素を基盤とする命であり、命が文字通りstar-dust、星屑から生まれたことも知っています。炭素が無ければDNAも、生命の素材となるタンパク質も、脂質も、糖も、脂肪も、筋繊維も、何も存在できません。

しかし私たちは、「命そのもの」を経験してはいません。命は、私たちに「人間」としてのすべての経験を可能にしてくれている条件です。しかし、私たちは誰も「命そのものを」経験しておらず、それが何なのかも知りません。

私たちの命が終わる時、私たちの命はこの肉体を離れます。そして、命が去ってしまったら、ついさっきまで命が宿っていた身体は残っているのに、そこに命を呼び戻すことはできません。

自然科学の知識を持たない大昔の人たちも、命の謎、その神秘に気づいていました。私たちの遠い祖先も、命が宿っている身体と命そのものが別であることを知っていたのです。

そして、ほとんどすべての文化圏に、「命」と「息」との同一視があります。それは、人や動物の体から命が去った後、人も動物も、呼吸を止めるからです。

「聖霊」はすべての命の源であると同時に、復活のキリストが世を去った後も、弟子たちに、教会に、イエス・キリストの存在を現し、復活の命を「実感」させる「神の息」です。

私たちは聖霊の時代を生きています。聖霊なしにイエス・キリストは現れず、聖霊無しに復活の命の実感もありません。

「命」が、私たち人間の、人間としてのすべての経験を可能にしてくれる条件であり、土台でありながら、私たちは命そのものを経験せず、命が何かわかっていない。それと同じように、聖霊はイエス・キリストの弟子としての経験全体を支える復活の命そのものであるが故に、私たちは聖霊を直接経験することもなく、聖霊が何かもわからないのです。

しかし、私たちは命を直接経験せず、命が何か知らなくても、私たちが生きていることは知っています。同じように、私たちクリスチャンは、聖霊を直接経験せず、聖霊が何か知らなくても、私たちがイエス・キリストの復活の命に生かされていることを知っているのです。

皆さん、ぜひ「命」と向き合ってください。皆さんが命と真剣に向き合うとき、命の与え主、聖霊が皆さんの上に働き始めます。

そして聖霊は、皆さんをイエス・キリストの復活の命に結びつけます。