三位一体主日 説教

2022年6月12日(日) 三位一体・聖霊降臨後第1主日 イザヤ6:1-8; 黙示録4:1-end,ヨハネ16:12-15

先週の日曜日6月5日の聖霊降臨日をもって、3月2日の灰の水曜日から始まった、長い長いイースター・シーズンが終わりました。とは言うものの、今日は三位一体主日ということで、とても神学的に重い意義づけを持った日曜日です。

洗礼を受けて教会生活をしていれば、「三位一体」という言葉を聞いたことのない人はいないはずです。洗礼準備のときか、幼児洗礼の人が堅信準備として一度は読むことになっている、祈祷書の「教会問答」の「問4」とその答えは、次のようになっています。

「4. 問」使徒信経の主意は何ですか。「答」(1)万物を造られた父なる神、(2)万民を贖われた子なる神、(3)命の与え主、世に働き神の民を清められる聖霊なる神、この父と子と聖霊なる三位一体の神を信じることです。

実は、使徒信経だけではなく、私たちが毎週の礼拝の中で唱えているニケヤ信経も三位一体論的な構造を持っています。しかし、「三位一体」という言葉に聞き馴染んでいたとしても、それを「理解」しているかどうかは別の話です。

「クリスチャンが信じている神様は唯一なのに、父と子と聖霊の3人だというのはどう言うこと?」そう聞かれて、説明できる人が一体どれくらいいるでしょうか。

そもそも、なぜ神様は「三位一体」じゃなくてはならないのでしょう?神が「七位一体」とか、「十二位一体」ではダメな理由が何かあるのでしょうか?

福音書の中で、イエス様は神に向かって「父」と呼びかけ、イエス・キリストは「神の息子」とか、「主」と呼ばれています。聖霊は新約聖書の至る所に登場し、イエス様を通して、弟子たちを通して、そして教会を通して働きます。新約聖書には、使徒たちがイエス・キリストを「主」と呼び、彼に向かって祈りを献げていることも記されています。

しかし聖書学者が口を揃えて言うように、聖書の中に三位一体はありません。それでは、教会の歴史の中で、なぜ「三位一体」という教義が発展したのでしょうか?「三位一体」という教義は、私たちの信仰の歩みにとって、どのような意義をもっているのでしょうか?

キリスト教教義の歴史的展開の順序で言えば、三位一体論はキリスト論の後に現れます。それは、神についての理解の頂点として、あるいは教義の完成形として現れたと言えなくもありません。

もちろん、三位一体という教義は、文化的真空地帯から生まれたわけではありません。その基本的枠組みを生み出したのは、ヘレニズム的教養を身につけた2世紀から4世紀の神学者たちでした。

もう少し言うと、三位一体という教義は、ヘレニズム的世界観を背景とした教会が、ギリシア哲学の知識をもって、イエス・キリストと聖霊と父なる神との関係について「理解しよう」とする試みの結果として生まれました。

しかし、私たちのモノの見方や世界観はヘレニズム的世界観と大きく異なり、私たちの「環境」を構成する科学技術の背後にある科学的知識とギリシア哲学も大きく異なります。

そのため、「神の内部に父と子と聖霊の3つの基体、あるいは主体、あるいはペルソナがあり、ペルソナにおいては互いに異なるが、同じ神の本性を有する」と言われても、一体何を言っているのかさっぱりわかりません。

私たちは、三位一体論という教義が確定されてからすでに1500年以上も後の時代を生きています。父と子と聖霊の関係について語るために用いられた教義の言葉を正確に知ろうとすることに、大した意味があるとは思えません。

むしろ、現代の教会にとって、私たちにとって重要なことは、三位一体論を生み出すことになったダイナミズムを理解し、そのダイナミズムの中に、私たちがこれからも生き続けることです。

キリスト教という信仰の特異性は、クリスチャンが神を知り、神との関係を築くその方法にあります。非常に乱暴な言い方をすれば、ユダヤ教にとっても、イスラム教にとっても、神を知ることは、神の掟を知ることであり、神との関係を築くことは、掟を守ることにあります。

しかし教会にとって、クリスチャンにとって、神を知る道は、イエス・キリストです。父なる神について私たちに教えてくれるのは、イエス・キリストであり、キリストを知ること無しに、神について知ることはできない。それが私たちの信仰です。

ところが、私たちは復活のキリストを「直接」に経験することはできません。ですから、イエス・キリストを「直接」に知ることもできません。直接経験することも知ることもできないイエス・キリストについて、私たちに教えてくれるのが聖霊です。

聖霊はイエス・キリストについて私たちに教え、イエス・キリストは父なる神を指し示します。このようにして私たちが出会う神は、静的な、staticな存在ではありません。

イエス・キリストによって私たちに現される神は、運動であり変化であられる神なのです。

神が運動であり変化でなければ、神が世界を創造することはありませんでした。神が運動であり変化でなければ、歴史のある時点で、父なる神がイエス・キリストを遣わすことも、死から甦らせることもありませんでした。

神が創造された世界の進路は、あらかじめすべて決定されているわけでもなく、かといって、まったくのランダムでもありません。神が創造された世界は、構造づけられていながら、開放性を持っています。

だからこそイエス・キリストを通してご自分を現された神は、天地創造の業に関与するようにと、イエス・キリストを通して私たちに呼びかけられるのです。

私たちクリスチャンにとって、神との関係は掟を守ることにではなく、父と子と聖霊が展開する天地創造のドラマに参加することにあります。

神はご自分が始められた天地創造の業を、完成に向かって導かれます。しかし、完成に至る道筋は、まだ決まっていません。驚くべきことに、神の呼びかけに対する人間の応答が、全宇宙の進路に影響を及ぼすような世界を神は創造されたのです。

人間の応答、人間の決断、人間の行動は、世界の運航に影響を与えます。それにも関わらず、神が世界を完成へと導くことができるのは、神が変化できる存在だからです。

神は変化を受け入れることができるからこそ、刻一刻と進路が変わり続ける世界に無限の微調整を加え、それを完成に向かって導くことができるのです。

キリスト教の歴史の中に、三位一体論が生まれたのは、父と子と聖霊のダイナミズムの中でしか、クリスチャンは神を知ることができないからです。

大切なことは、三位一体の教義の言葉を正確に理解することではありません。大切なことは、父と子と聖霊が展開するドラマの中に巻き込まれることです。

私たち聖マーガレット教会が、父と子と聖霊のダイナミズムの中で神に出会い、神の呼びかけに応えて、天地創造の業に参与する群れとして成長することができますように。