
6月15日(水) 立教女学院 中高礼拝 ヨハネ16:12-15
今読まれたヨハネによる福音書16章12節から15節は、 今週の日曜日、6月12日の三位一体主日に、教会の礼拝で読まれるように指定されていた箇所です。
「三位一体」というのは、英語の ‘Trinity’ 、あるいは ラテン語の ‘trinitas’ という言葉の翻訳です。
「三」を意味する ‘tri-‘ と、「一致」を意味する ‘unity/unitas’ を結びつけて作られたキリスト教用語で、「三つが切り離し難く一致している」「三つが一つである」ということを意味しています。
教会の歴史の中で、あるいはキリスト教の発展の中で、 なぜ、こんな言葉が作られることになったのでしょう か?
この質問に対する一つの答えは、クリスチャンと呼ばれる人たちが神を知り、神との関係を築くその特殊な方法のためだと言えるのではないかと思います。
教会にとって、クリスチャンにとって、神がどんなお方か知るための最も重要な道は、イエス・キリストです。 神を「父」と呼んだのはイエス・キリストであり、父 としての神を知るためにはまず、イエス・キリストを知らなくてはなりません。
ところが私たちは、復活のキリストを「直接」に経験することはできません。ですから、イエス・キリストを「直接」に知る道は私たちには閉ざされています。
では、直接経験することも知ることもできないイエス・キリストについて私たちに教えてくれるのは誰でしょうか?
それは聖霊です。それでは聖霊は一体何者でしょうか?
聖霊は、父なる神から遣わされ、イエス・キリストを通して働き、そしてイエス・キリストの弟子たちに彼について教え、彼の働きを世にあって継続させる神の息吹であり、復活の命です。
つまり、私たちは父と子と聖霊が展開するドラマの中で神に出会い、父と子と聖霊が展開するドラマの中に巻き込まれるという形で、神様との関係を生きるのです。
父と子と聖霊が展開するドラマの中で現れる神は、静的な、staticな存在ではなく、運動であり、変化です。
プラトンやアリストテレスに代表されるギリシア哲学の世界観の中では、変化や運動は不完全性の証拠と見做されていました。同じことを反対から言えば、動かないこと、変化しないことが、完全性の証拠と見做されていました。
しかし父と子と聖霊が展開するドラマの中で現れる神は運動であり、変化です。
神が運動する神であり変化する神であるからこそ、神は世界を創造し、世界の歴史のある時点で、イエス・キリストを通して働かれ、十字架の上で死んだ彼を死から甦らせました。
運動し変化する神が創造された世界は、巧みに構造づけられていながら、その中に大きな開放性を、自由を伴っています。神はご自分が造られた世界を完成に向かって導かれますが、その道筋は、まだ決まっていません。
驚くべきことに、神は、意志と意図を持った存在である人間の決断や行動によって、進路が変わるような世界を創造されたのです。
神の呼びかけに対する人間の応答、人間の決断、人間の行動は、世界の運航に影響を与えるのです。
だからこそイエスを死から甦らせ、世界が死ではなく、命の充満に至ることを示された神は、ご自分が造られた世界を完成へと導くドラマの中に、私たちを呼び込み、 巻き込もうとされます。
私たちはしばしば、「自分は世界を変えることはできない」と言います。しかし現実はまったくの逆です。
私たち一人ひとりは、 毎日、世界を変え続けているのです。
私たちには、自分の意図が、自分の決断が、自分の行動が、どのように世界を変えているのかが見えていないだけです。神の呼びかけに対する皆さんの応答は、世界の進路を変えるのです。
父と子と聖霊が展開するドラマの中に、皆さんも巻き込まれてください。そして神が創造された世界を完成へと導くための、神の協力者となってください。