聖霊降臨後第3主日 説教

聖霊降臨後第3主日(特定8)列王上19:15-16, 19-21; ガラテヤ5:1, 13-25; ルカ9:51-62

「ルカ」によって書かれた『ルカ福音書』と『使徒言行録』には、「サマリア」、あるいは「サマリア人」という言葉が12回登場します。

イエス様の時代、ユダヤ人とサマリア人の間の敵意は凄まじいもので、流血沙汰にならずにユダヤ人とサマリア人が遭遇することなど、ほとんどあり得ませんでした。ユダヤ人がサマリア人の財産を略奪したかと思えば、サマリア人がユダヤ人の家を襲うという報復合戦が絶え間なく続いていました。

しかも、互いに対する憎悪は、昨日今日に始まったものではなく、紀元前922年の王国分裂にまで遡るほど長く、時には戦争に発展するほど激しく、根深いものでした。

人間的な言い方をすれば、そこには友好関係はおろか、対話の余地すらありませんでした。ですから、「主よ、お望みなら、天から火を下し、彼らを焼き滅ぼすように言いましょうか」というヤコブとヨハネの言葉は、サマリア人に対する当時のユダヤ人の気持ちを代弁しているわけです。

ところが、実は、今日の福音書朗読で読まれた9章51節から56節以外、『ルカ福音書』と『使徒言行録』におけるサマリア人の扱いは、極めて好意的なのです。

ルカ福音書10章25節から37節は、有名な「良きサマリア人」の話です。そこではサマリア人の旅人が、イエス様の弟子たちが倣うべき模範として描かれています。

ルカ17章11節から19節は、「10人の重い皮膚病の患者」が癒やされる記事です。その中で、自分が癒やされたことを知って、イエス様に感謝するためにイエス様のところに戻ってくるのは、たった一人のサマリア人です。

さらに使徒言行録に入ると、サマリア人たちは、使徒たちの福音を聞き、喜んでそれを受け入れる者たちとして登場します。

ですから、今日の福音書朗読で読まれた9章51節から56節の記事の中で、唯一の例外として、「サマリア人」が否定的に描かれているということには、何か特別な意味があるはずです。

では、「ルカ」は、この箇所で「サマリア人」を、イエス様に敵対する者として描くことで、私たちに、キリストの弟子として歩もうとする者たちに、何を示そうとしているのでしょうか?

それは「イエス・キリストに従う者は、最も憎むべき敵すらも滅ぼしてはならない」ということです。

「ルカ」はルカ福音書の9章52節で初めて「サマリア人」を登場させます。そこでは、すべてのユダヤ人にとっての敵である「サマリア人」が、当然のように、イエス様の敵として描かれています。

しかし、ルカ福音書と使徒言行録のその後の展開は、読者に大きな驚きをもたらします。なぜなら、最も憎むべきユダヤ人の敵、サマリア人が、イエス・キリストの弟子の模範となり、福音を喜んで受け入れる者として登場するからです。

サマリア人がイエス・キリストの福音を受け入れ、忠実な弟子となった。これによって起こったことは、人間的に言えば、「絶対に不可能なこと」でした。

ユダヤ人とサマリア人が、共に祈り、共に神を讃美し、神の家族として、共に食卓を囲むようになったのです。

千年に渡って続く敵対関係を終わらせ、互いに憎しみ合う者たちを、一つの家族として食卓に着かせることが可能になった。

それは、「主が、最も憎むべき敵をも殺してはならないと、弟子たちに命じたからだ。」「ルカ」はそのことを私たちに教えようとしているのです。

では、もう一歩踏み込んで、「ルカ」は、なぜ、サマリア人を、キリストの弟子の模範として、福音を喜んで受け入れる者として、描くことができたのでしょうか?

それは、「ルカ」自身が所属する共同体の中で、サマリア人クリスチャンと出会い、神の家族として、共に食事をしていたからです。

同じことを反対から言えば、もし「ルカ」が、サマリア人クリスチャンと出会っていなければ、サマリア人と共に食事をしていなければ、「ルカ」は絶対に、「良きサマリア人」の物語を書けなかったということです。

今日の説教の中で私が一番言いたいことは、教会がどのような共同体になるかが、人々がどのような神に出会い、どのようなキリストに出会うかを決めるということです。

恐らく、今、ロシアの教会に行けば、私たちはそこで、ロシア人を愛し、ウクライナ人を滅ぼす神に出会うでしょう。同じように、今、ウクライナの教会に行けば、私たちはウクライナ人を愛し、ロシア人を憎む神に出会うでしょう。

教会がそのような神に出会う場になってしまっている。その現実こそが、教会の犯してきた大きな罪と過ちとを証しています。

もし聖マーガレット教会を訪れる人々が、日本人を愛して中国人を憎む神や、日本人を愛して韓国人を憎む神に出会うとするなら、私たちはイエス・キリストに背を向けていることになります。

なぜなら、イエス・キリストは、「父を葬る」ことすらも差し置いて、「神の国」を告げ知らせるようにと命じているからです。

ユダヤ人社会において、親の埋葬をふさわしく行うことは、「父と母を敬え」という律法に従うことであり、子どもが果たすべき、最も重要な義務と見なされていました。ですから「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」というイエス様の言葉は、ユダヤ人社会の「世間の常識」とは、全く相容れない、到底受け入れがたいものでした。

しかし、イエス・キリストが弟子たちに、私たちに求めるのは、世間の常識に逆らってでも、神の国を告げ知らせることです。

神の国を告げ知らせること。それは、単なる言葉ではありません。教会は、サマリア人とユダヤ人が共に祈り、共に神を讃美し、家族として共に食卓を囲む共同体となることを通して、人々に神の国を告げ、知らせるのです。

願わくは、主が聖マーガレット教会を、日本人と韓国人が、中国人とアメリカ人が、パレスティナ人とユダヤ人が、共に祈り、神を讃美し、共に食卓を囲む、神の国の共同体として成長させてくださいますように。