聖霊降臨後第5主日 説教

2022年7月10日(日)聖霊降臨後第5(特定10)主日

申命記30:9-14; コロサイ1:1-14; ルカ10:25-37

「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」「隣人を自分のように愛しなさい。」

これは申命記6章5節とレビ記19章18節からの引用です。旧約聖書全体の掟を貫く価値が申命記6章5節とレビ記19章18節に集約されているという考えは、イエス様の時代、一般常識でした。

イエス様はこの「一般常識」を「正しい」と認めた上で、それを実行すれば永遠の命が得られると言います。

しかし律法の専門家は、イエスは誰が「隣人」であるか、正しく理解していない、そう思っています。なぜなら、イエス様の周りには、「隣人」が誰かを正しく知っていたらいないはずの、怪しい人たちがゴロゴロいたからです。

イエス様の弟子には徴税人や女性たちまでいました。当時、律法の教師たちが女性を弟子にすることはあり得ず、女性の弟子の存在は、スキャンダラス以外の何ものでもありませんでした。さらに、イエス様が一緒に食事をする人たちの中には、律法に従って生活することを放棄している「罪人」や娼婦たちまでいました。

誰が「隣人」であるかを知っている「正しく」「聖い」ユダヤ人であれば、絶対に関わりを持たないような人々が、イエス様の周りにはわんさと居る。からこそ律法の専門家は「私の隣人とは誰ですか」とイエスに質問しているのです。

誰が自分の隣人であるかを知ることは、誰が神の掟に従って歩む聖い人で、誰が掟に従わない穢れた者であるかを知ることです。そうすることによって、誰が私の愛と憐れみの対象となり、誰と付き合うべきかがわかり、誰が神に呪われた穢れた者で、誰を避けるべきかがわかります。

こうして「私の隣人」は神に祝福された仲間となり、それ以外の者は神に呪われた「滅びるべき敵」となります。

イエス様の時代の敬虔なユダヤ人にとって、「隣人」となり得るのは、神の掟に従って歩む聖い者たち、神を畏れる同胞のユダヤ人だけでした。

「十戒」の中にある「汝、殺してはならない」という掟は、「隣人」のカテゴリーから外れる者には適用されません。だからこそ旧約聖書に記されたイスラエルの民の物語も、戦争に溢れているのです。

「隣人」のカテゴリーに入らない外国人は律法を持たず、神の掟を知らない者たちであり、必然的に穢れた者たちです。神は穢れた者たちを嫌われ、彼らを滅ぼす神であるが故に、穢れた民を戦争によって滅ぼすことは正義となり、神に喜ばれることとなります。

しかしイエス様は、「隣人」をあらかじめ定め、知っておくべきだという考えを退け、その偽善を暴きます。

エルサレムからエリコへ下って行く途中で追い剝ぎに襲われ、半殺しの状態で道端に放り出されているのはユダヤ人です。そこに同胞であり、「隣人」であるはずの祭司とレビ人が通りかかりますが、二人ともそそくさと道の反対側を通って去って行きます。

「神の掟」とされる「モーセの律法」に従って話をすれば、祭司もレビ人も、何も「間違ったこと」はしていません。レビ人は祭司の民とされ、祭司の守るべき掟はレビ人にも適用されます。

もし追い剥ぎに襲われて倒れている人がすでに死んでいた場合、その人に触れると自分が「穢れる」ことになります。律法は、遺体に触れる者は穢れると定めているからです。ですから、祭司もレビ人も、「自分はモーセの律法に従って正しい判断をし、リスクを回避しているだけだ。何も間違ったことはしていない。」そう言うことができます。

こうして、「隣人」であるはずの同胞が瀕死の状態で道端に置き去りにされているのを助けない行為は、律法によって正当化されるわけです。

しかしイエス様は、「掟に従って自らを聖く保とうとする」ことに、何の価値も見出しません。そしてイエス様は、驚くべきことをします。物語の中に、サマリア人を登場させるのです。

ユダヤ人にとって、サマリア人は異邦人以下の、憎むべき敵であり、決して「隣人」となりえない存在です。敵意は双方向であり、ユダヤ人だけがサマリア人を憎んでいたわけではありません。サマリア人もユダヤ人を憎んでいました。

ところがサマリア人の旅人は、強盗に襲われ、半殺しで放置されたユダヤ人の姿を見て、心を動かされます。そして、このサマリア人の旅人は、ただ憐れみの心に突き動かされて、「敵」であるはずのユダヤ人の傷を手当てし、彼を抱き上げ、家畜に乗せて宿まで運び、この人の命を生かすために、懸命のケアをします。

イエス様は譬え話を終えた後、律法の専門家にこう問いかけます。「誰が追い剝ぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と。

そして、律法の専門家が、「その人に憐れみをかけた人です」と答えると、イエス様は、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言います。

イエス様は最後まで、「わたしの隣人は誰か?」という律法の専門家の質問には答えていません。むしろイエス様は、「隣人になりなさい」と命じることによって、「隣人」の境界線を定めることそのものを拒否しているのです。

これは私たちにとって、重要な教訓です。教会の中で、「誰が隣人か」とか、「日本の教会は、誰よりもまず日本人を愛するべきではないのか?」という話が始まる時、私たちは確実に、イエス・キリストの福音を裏切ることになります。

私たちが「隣人」をあらかじめ確定しようとする時、私たちは同時に、「隣人」に入らない者たちの苦しみを正当化し始めます。

現代の「イスラエル」にも、パレスティナの土地は神によって自分たちに与えられたのであり、その土地をユダヤ人で満たすことは神の御心なのだと信じる人たちがいます。そして、その人々は、パレスティナ人の家屋を破壊し、畑を破壊し、その土地を奪い、次々とユダヤ人の入植地を建設しています。

白人至上主義を掲げるキリスト教の忠実な信者たちは、アフリカ系の人々の苦しみを正当化し続けています。

戦時中、日本のすべての教団教派の教会は、日本の教会は日本に仕えるべきだという政府のプロパガンダを受け入れ、外国人メンバーを排斥し、福音をもたらしてくれた宣教師たちまでも追放しました。

問題は、あらかじめ隣人の範囲を確定しておくことではありません。イエス・キリストの弟子たちにとって、教会にとって本当に重要な問いは、私たちは「誰の隣人となるべきか?」です。

私たちは、「隣人」をあらかじめ定めようとする人々の隣人になってはなりません。

サマリア人の旅人に、「憐れみの心」を呼び起こすのは、半殺しの状態に捨て置かれ、自分で自分をどうすることもできない、立ち上がることすらできない、「傷ついた者」の現実です。

私たちは、前もって「隣人」を定義する必要も、特定する必要もありません。隣人となる人は、私たちの前に現れるからです。

主が私たちを、傷つき、苦しむ者の隣人としてくださいますように。