









2022年7月24日(日)聖霊降臨後第7(特定12)主日
創世記18:20-33; コロサイ2:6-15; ルカ11:1-13
きっと皆さんは、今朝の福音書朗読の中に、「主の祈り」があることに気づかれたでしょう。でも、「なんかちょっと違うな~」と思われた方も多いはずです。
実は、私たちが毎週日曜日に礼拝の中で用いている主の祈りは、マタイの福音書6章9節から13節に基づいています。もう少し正確に言いますと、聖公会とカトリック教会が共通の「主の祈り」として用いているものは、マタイ福音書ヴァージョンに、ルカ版からの修正を1ヶ所加えたものです。
今日は特に、主の祈りを通して私たちが神に献げる2つの願い、「日毎の糧」と「赦し」に心を留めていきたいと思います。
主の祈りの中で、日々の生活に関わることで私たちが最初に願い求めるのは、日々のパン、毎日の肉の糧です。しかもその願いが、「私の必要とするパンを、毎日私に与えてください」ではなく、「私たちが日毎に必要とするパンを、毎日私たちに与えてください」となっているという点が重要です。
ここからもわかるように、主の祈りは、本来、個人の祈りではありません。たとえ一人で主の祈りを献げているとしても、これは共同体の祈りです。主の祈りは、「日々の糧を得ることができるように」とは言いません。「私たちが日毎に必要とするパンを、毎日私たちに与えてください」と言います。
命は私たちが得たものではありません。命は私たちが獲得したものではありません。それは神が与えられたものです。同じように、神が与えたこの肉にあって生きる命を支える命のパン、日々の糧も、本来、神が「与えてくださる」恵みです。ですから、肉にあって生きる命を支える糧は、獲得されるべきものではなく、すべとの人に、等しく与えられているものです。
実際、世界で生産されている食料は、世界人口の全体を養うのに十分な量です。しかし世界では、今だに8億3千万人もの人々が飢餓状態にあります。
今年は、ロシアがウクライナで始めた戦争のために、ウクライナからの穀物が輸出できなくなり、世界規模の食糧難に陥ることが懸念されています。
22日の金曜日には、トルコのイスタンブールでウクライナとロシア双方が、ウクライナからの穀物輸出を再開し、世界的食糧危機を回避するために、港と商用船に対する攻撃をしないとの合意に達しました。しかし、翌日、土曜日の朝には、ロシアが再びオデッサの港を爆撃し、食料輸出再開の合意は、早くも暗礁に乗り上げています。
それでも、今日ここに集っている私たちが心配するのは、食料品の値段が上がるということくらいで、誰一人、「今日の食事」の心配をしてはいないでしょう。
率直に言って、「日毎の糧を今日もお与えください」という願いは、自然には、自動的には、「私たち」の祈りになり得ません。
しかし、教会という共同体の中心には、共に食事をすることがあります。それは本来、この儀式化された聖餐式ではありません。実際に、パンを分かち合い、共に食卓を囲み食事をすること、それが教会の中心であり、そこに神の家族があります。
今日、11時からの礼拝の中で、JMさんの洗礼式が行われます。
彼女は韓国からの留学生で、5月から聖マーガレット教会に来るようになりました。そのMさんが、イエス・キリストを通して、共に食卓を囲む神の家族に加えられます。血縁によってでもなく、民族によってでもなく、国籍によってでもなく、イエス・キリストによって集められて、神の家族となる。
そのことを通して私たちは、「私の日毎の糧を、私に毎日与えてください」ではなく、「私たちが必要とする糧を、私たちに毎日与えてください」と祈ることを学びます。
私はよく、教会は神の国を指し示す共同体だと言いますが、その具体的な意味は、極めて単純です。それは、そこに属する者が、皆、共に、生きていけるということです。これは、主の祈りの、「赦し」を願い求める部分と密接に繋がっています。
ルカ版の「私たちの罪をお赦しください」という箇所で、「罪」と訳されているのは ‘ ἁμαρτία’ という言葉です。これは、求められる基準に達しないことや、目的が達せられないこと、法に背く行為から人に対する嫌がらせに至るまで、適用範囲の広い言葉です。
しかしマタイの方では、「罪」という言葉ではなく、借金という言葉が用いられています。その部分をギリシア語から直訳するとこのようになります。「私たちの借金を免除してください。私たちも私たちに借金のある人たちを免除しましたから。」
これは、憐れみ深く慈しみ深い神との関係が、共同体の生き方に反映されていなくてはならないということを表しています。
福音書が書かれた時代、共同体の中に、貧しくて、謝金をしなければ「今日のパン」にありつけない人が実際にいたわけです。そして、当然のことながら、借金をして、返せないケースも出てきます。
イエス様の譬え話にもあるように、この時代には、借金を払えなくて訴えられれば、金を借りている本人も、その家族も、自分を奴隷として売らなければなりませんでした。
しかし、キリストの弟子たちの共同体の中では、借金が払えなくて奴隷として売られるようなことはあってはならない。もし共同体の仲間が、どうしても借金を払えないような状況に陥ったら、それを免除するべきだ。なぜなら、神が私たちを愛し、受け入れてくださっているということは、決して払いきれない借金を帳消しにしてもらったのと同じように感謝し、喜ぶべきことなのだから。
そのことを、マタイ版の主の祈りは、素朴な表現で表しているのです。
もともとは、ルカ版の「罪」ではなく、マタイ版の「借金」の方が、主の祈りの言葉遣いだったはずです。
ルカは「神に対して借金しているとはどういう意味か」という疑問を回避するために、「借金」という言葉の代わりに、より適用範囲の広い「罪」という言葉を用いたのでしょう。しかし、ルカ版の主の祈りにも、「私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」とあります。
共同体の中で借金を返せない者がいるときには、その人を奴隷として売ってはいけない、借金を免除するべきだという共同体の行動原理は、どちらでも変わっていません。
主の祈りが語る「赦し」は、極めて具体的なことで、罪悪感からの解放でも、心理的問題でもありません。
問題は神が人を赦さないことではありません。問題は、私たちが赦されていることを受け入れられないことです。愛されていることを受け入れられないことです。その結果として、私たちが人を赦すことができない。それこそが最も大きな問題です。
教会が神の国の共同体になれたなら、そこには食べられずに死ぬ仲間がいなくなります。借金を返せなくなったメンバーも、借金を免除されて、奴隷として体を売らなくても済むようになります。
教会は、そこに集う人たちが一緒に食事をして、一緒に生きていけて、死なずに済む、そういう共同体になることを通して、神の国の豊かさを、神の愛と恵と慈しみの大きさを、世に示します。それが、教会になるということです。
今日、JMさんを新たな家族のメンバーとして迎える聖マーガレット教会が、聖霊の導きと力によって、神の家族として、これからも成長していくことができますように。