









2022年7月31日(日)聖霊降臨後第8主日
コヘレト 1:12-14, 2:18-23; コロサイ 3:12-17; ルカ 12:13-21
今日の第1朗読で読まれた『コヘレトの言葉』は、知恵文学と呼ばれるジャンルに属する書物です。「コヘレト」というのは、「集める者」、「収集者」という意味ですから、『コヘレトの言葉』は、知恵の言葉が集められた書物ということになります。
『コヘレトの言葉』には、「空」という言葉が、何度も繰り返し出てきます。『コヘレトの言葉』の本文も、「空の空/空の空、一切は空である」と始まります。日本語で「空」と訳されているのは、ヘブライ語の ‘he.vel’ という言葉です。旧約聖書全体の中で、64節にしか出てこない言葉ですが、そのうちの30節は『コヘレトの言葉』の中にあります。
これは、「蒸気」とか「息」という意味の言葉ですが、そこからの連想で、「束の間現れて消え去ること」、「儚いもの」、「空虚なもの」をも意味します。
『コヘレトの言葉』の著者、知恵の言葉の収集者は、この世で人々が追い求めるものをすべて手に入れることに成功します。
彼は「事業を広げ」、「邸宅を建て」、「ぶどう園」、「庭園」、「果樹園」を造り、木の生い茂る大庭園を作り、「男女の奴隷を買い入れ」、「かつてエルサレムにいた誰よりも/多くの牛や羊の群れを所有」するようになります。さらに、「銀や金」、「財宝」を集め、男女の歌い手をそろえ、「多くの側女」に囲まれて生活し、「エルサレムにいた誰よりも…偉大な者」となり、栄華を手に入れました。
その成功を、コヘレトはこう評します。「目が求めるあらゆるものを/私は手中に収めた。/私はすべての喜びを享受し/心はすべての労苦を喜んだ」と。
しかし、この世で人が慕い求めるもの全てを手に入れ、自分のしたいと思うことし尽くしても、すべては ‘he.vel’ である、儚く、虚しいとコヘレトは言います。知恵の言葉の収集者であるコヘレトが、すべては儚く、虚しい、そう言うのは、人が死を迎える時、自分のために積み上げた富を、財産を、持って行くことができないからです。
「知恵と知識と才を尽くして労苦した人が、労苦しなかった人にその受ける分を譲らなければならない。これもまた空であり、大いにつらいことである。」(2:21)
「母の胎から出て来たように/人は裸で帰って行く。/彼が労苦しても/その手に携えて行くものは何もない。15 これもまた痛ましい不幸である。/人は来たときと同じように去って行くしかない。/人には何の益があるのか。/それは風を追って労苦するようなものである。」(5:14, 15)
そしてコヘレトは、人生そのものが、命が無意味だという結論に達します。
「人の子らの運命と動物の運命は同じであり、これが死ねば、あれも死ぬ。両者にあるのは同じ息である。人が動物にまさるところはない。すべては空である。20 すべては同じ場所に行く。/すべては塵から成り/すべては塵に帰る。」(3:19, 20)
コヘレトは続けます。「4:2 今なお生きている人たちよりも、すでに死んだ人たちを私はたたえる。3 いや、その両者よりも幸せなのは、まだ生まれていない人たちである。彼らは太陽の下で行われる悪事を見ないで済むのだから。」(4:2, 3)
こうしてコヘレトの見出した知恵は、原始仏教の世界観に接近します。原始仏教にとっては、命が、生きることが苦しみなのであって、そこに肯定的な意味は一切ありません。原始仏教はコヘレトの知恵と同様、ニヒリズムです。
『コヘレトの言葉』の中には、律法全体を貫いている、因果応報の神はいません。コヘレトは、神の掟に従って聖く歩む者に祝福を与え、掟を破って汚れた者を呪う神を信じていません。コヘレトが知恵の中に見出した神は、気まぐれで、計算不可能な、理解不能な神です。
『愚かな者よ、今夜、お前の魂は取り上げられる。お前が用意したものは、一体誰のものになるのか。』イエス様が譬え話を通して語られているこの言葉には、コヘレトの知恵のこだまが聞こえます。
しかし、コヘレトとイエス様の「知恵」の間には、大きな違いがあります。コヘレトが命を無意味だと見なしたのに対して、イエス様にとって、人生は、命は、喜び、楽しみ、そして祝うべきものでした。
この違いは、どこから来るのでしょうか。すぐに気づく違いは、コヘレトはこの世で手に入れうるすべてのものを手に入れた大富豪なのに対して、イエス様は貧乏な大工の息子だという点です。この境遇の違いが、さらに重大な違いを生み出します。
コヘレトが、「人生は儚く虚しい」と見なすその根拠は、自分のために蓄えた富を、財産を、死ぬときに持っていけないということでした。しかし、イエス様にとっては、このコヘレトの「知恵」は、愚かなのです。なぜなら、コヘレトの知恵の全体は、貪欲に貫かれているからです。
この世で全てを持っていたコヘレトが、唯一持っていなかったもの。それは「愛」です。コヘレトの知恵は、「愛」を知りません。コヘレトの「知恵」には、他者の姿がまったく見えません。
イエス様は、コヘレトが持っていたものを、ほとんど何も持っていませんでした。しかしイエス様には愛がありました。イエス様は愛を知っていました。イエス様が知っていた愛は、そしてイエス様が示された愛は、自分を与えることにその本質があります。
それに対して、貪欲は与えることを拒みます。ですから貪欲のあるところに愛はありません。貪欲と愛は、相入れないのです。だからこそ、コヘレトの知恵の中には、他者がいないのです。
そして、愛のないところに本当の交わりはありません。交わりのないところには孤独しかありません。孤独の中に喜びはありません。
イエス様が語る永遠の命、神の国の命が、祝宴を通して、パーティーを通して表されるのは、自分を与える愛があるところに本当の交わりがあり、そこに命が満ち溢れるからです。
貪欲な者は、愛を知りません。愛のない者は、本当の祝宴の喜びを知らないのです。
すでに20年近く前のお話ですが、私の母方の祖父が亡くなってしばらく経った頃、母の一番下の弟にあたる叔父から、遺産相続の裁判をするようにと勧められたことがあります。それは、祖父が亡くなった後、5人兄弟の長男が遺産を独り占めにして、他の兄弟や姉妹と分割協議をしなかったためでした。
その頃、母は心の病で病院に入院しており、遺産相続をめぐる訴えを自分で起こせるような状態にはありませんでした。
「長女のてるちゃんは(てるちゃんというのは私の母のことです)、5人兄弟の中で一番苦労した。てるちゃんに世話にならなかった兄弟は一人もいない。」「それなのに、遺産相続の権利もあって、一番苦労したてるちゃんが、何も受け取れないのはひどい。」
それが、叔父の怒りであり、母のために、遺産相続の訴えを起こすべきだという理由でした。
しかし私は、母と、そして私のことを気にかけてくれた叔父の勧めを断りました。もちろん、誰も霞を食って生きていけるわけではありません。お金は大切です。しかし、母は生活保護を受けながらではありますが、生活ができていました。私も短大の教員として、一応生活ができていました。
なんだかんだ言っても、遺産相続問題の根っこにあるものは、結局は貪欲です。遺産相続をめぐる問題から骨肉の争いになり、人間関係が破壊され、不幸になる人たちを沢山見てきました。
法廷闘争のために貴重な時間を使い、高い弁護士費用を払って、いくらかの遺産を手に入れたとしても、自分の心が貪欲になり、ギスギスして、今の生活に満足できなくなったり、与えられている恵みに感謝できなくなったりすることのマイナスの方がずっと大きい。そう思ったのです。
その時の決断をまったく後悔していませんし、それで良かったと今でも思っています。
神のために豊かになる道は、貪欲から解放される道です。その途上で、イエス・キリストから、与える愛を学び、互いに仕え合うことから生まれる豊かさを学びます。その道の向こうに、祝宴の中にある神の国の命が、命の充満が現れます。
主が私たちを貪欲から解放し、喜びに溢れた祝宴共同体としてくださいますように。