主イエス変容の日 説教

2022年8月7日(日)主イエス変容の日

出エジプト 34:29-35; IIペトロ 1:13-21; ルカ 9:28-36

教会のカレンダーでは、8月6日はTransfiguration、主イエス・キリストの姿が変わって、栄光の光に包まれた出来事を祝う祝日です。しかし、この国に生きる者たちにとって、8月6日は、人類がそれ以前に目にしたことの無かった巨大な光、原爆の光を記憶する日となりました。

ポツダム会議を終え、戦艦アウグスタでアメリカに向かっていたハリー・トゥルーマン大統領に、広島への原爆投下が「成功」したことが告げられます。するとトゥルーマン大統領は、「これは歴史上、最も偉大なことだ!」と歓喜の声を上げました。

人類が歴史上初めて目にした原爆の巨大な光は、3日後の8月9日に、日本で最も多くのカトリック信者が暮らす街、長崎で再び輝きます。

皮肉なことに、長崎への原爆投下作戦は、従軍チャプレンを務めていたカトリックの司祭、George Zabelka によって祝福を受けます。

彼はもちろん、作戦の全容も、どこが攻撃対象となるのかも、知らされてはいませんでした。しかし Zabelka は、長崎に原爆を投下することになるパイロットたちのためにミサを行い、彼らを祝福して送り出したのでした。

そして、司教座の浦上天主堂がある長崎に原爆を落としたのも、アイルランド出身のカトリック信者でした。

カトリックのチャプレンとして作戦を祝福したZabelkaは、長崎に原爆が投下されたことを知らされ、衝撃を受けます。戦後、彼は日本にやって来て、被爆者たちが収容されている病院を訪ね、何千人もの被爆者たちの苦しみを目の当たりにすることになりました。

被爆者たちとの話を重ねた Zabelka は、アメリカに戻らないことを決断します。彼はそのまま日本に留まり、残りの生涯を、平和と原爆の恐ろしさについて世界に警告する活動のために献げます。

1980年に行われたインタヴューの中で、Zabelka は廃墟となった長崎を訪れた時のことを振り返り、こう語っています。

「戦争直後、私は長崎の廃墟を通り抜け、かつて浦上天主堂が立っていた場所を訪れて、がれきの中から香炉を拾い上げました。私は今も、その香炉を見つめながら神に祈ります。私たちがこれまで、キリストの教えを捻じ曲げ、キリストによって創造された世界を破壊してきたことを赦してください、と。私は、コンスタンティヌスと共に始まったこのおぞましいプロセスが、その最低点に達したとき、カトリックのチャプレンとしてそこにいたのです。」

Zabelka が「コンスタンティヌスと共に始まったおぞましいプロセス」と呼んでいるのは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」というイエス・キリストの言葉を、「愛をもって敵を殺すように」と書き換えるプロセスです。

これは冗談でもなんでもなくて、「正戦論」と呼ばれる教会の伝統です。ちなみに、「正戦」というのは「聖なる戦争」、Holy Warではありません。「正戦」というのは「正しい戦争」、あるいは「正当化しうる戦争」という意味です。

このような「書き換え」が行われることになったのは、4世紀以降に、教会とローマ帝国の一体化が進んだためです。教会の指導者たち、主教や司祭たちは、ローマ皇帝の戦争をイエス・キリストの栄光を現す戦争と見なし、これを教会が祝福できるようにしたのです。

このような「書き換え」の結果として生まれたのは、 Zabelka によれば、「1700年に渡って、主の名によって復讐、殺人、拷問、権力の追求と暴力とに明け暮れてきたキリスト教」です。

非常にショッキングな言葉です。しかし私たちは、福音の書き換えによってもたらされた最悪の出来事を目撃した信仰者の言葉に、耳を塞ぐわけにはいきません。

「バプテスト教会の偉大な信徒」と評されたハリー・トゥルーマン大統領が、「歴史上、最も偉大なこと」と讃えた原爆の栄光と、変容貌のキリストの栄光の違いを識別することを学ばなければ、私たちは「平和を作る者」となることはできません。

変容貌の場面に現れたモーセとエリヤは、イスラエルの歴史の中で、最も大きな栄光を受けるに値すると見做されている人物です。

モーセは奴隷の地エジプトからイスラエルの民を約束の地へと導き出した指導者です。イエス様の時代のユダヤ教にとって、モーセと、モーセを通して与えられたとされる神の掟、律法は、最高権威と見做されていました。

エリヤは、イスラエルの歴史における最も偉大な預言者、預言者の中の預言者とされていました。なぜなら、彼は850人もの異教の神に仕える預言者に対して、たった一人で戦いを挑み、彼らを滅ぼしてイスラエルを異教の神から、偶像崇拝から解放した英雄だからです。

イスラエルの歴史において、もっとも大きな栄光を受けるにふさわしいと見做されていたモーセとエリヤですが、イエス様の栄光と、モーセとエリヤの栄光には、明確な違いがあります。

モーセとエリヤは共に、戦士であり軍事指導者です。モーセもエリヤも、多くの敵を殺し、滅ぼしました。だからこそ彼らは、イスラエルの歴史における「英雄」と見做されているのです。

そしてモーセもエリヤも、彼らの権威を受け入れた者たちに対して、自分に従わない者たち、敵を殺害するようにと命じています。

イエス様の時代、メシアを待ち望む人たちは皆、敵を殺し、滅ぼすことなくして、自分たちの救いはない。そう思っていました。

しかしイエス様は、自分に敵対する者を、一人も殺していません。イエス様には沢山の敵がいました。しかしイエス様は、一人たりとも、自分の敵を殺しませんでした。

さらにイエス様は、イエス様の権威を受け入れる人々にも、弟子たちにも、敵を滅ぼすことを禁じて、むしろ「敵を愛し、敵のために祈れ」と命じました。

イエス様の栄光と、モーセとエリヤの栄光との絶対的な違いがここにあります。イエス様の栄光は、十字架を通して明らかになる栄光です。

十字架の栄光。それは、敵を滅ぼすことによって救いを得ようとすることも、戦争によって平和を実現しようとすることも退けたイエス様に、神がお与えになった栄光です。

救いは与えることにあり、平和は仕えることによってしか生まれません。

「これは私の子、私の選んだ者。これに聞け」と言う声の後に残されたのは、イエス様だけです。

モーセとエリヤの栄光は過ぎ去らなくてはなりません。敵を殺すことによって救いを得、戦争によって平和を実現しようとする道は放棄されなくてはなりません。

私たちが聞き従うべきは、十字架を通って栄光を受けられた主イエス・キリストです。

 核戦争前夜とも言える、今、この時こそ、「1700年に渡って、主の名によって復讐、殺人、拷問、権力の追求と暴力とに明け暮れてきたキリスト教」に別れを告げ、「与えることによって救いを実現し、仕えることによって平和を作る、主の道に立ち帰ることができるように、聖霊の導きを求め、共に祈りましょう。