





2022年8月21日(日)聖霊降臨後第11主日
イザ28:14-22; ヘブ12:18-19, 22-29; ルカ 13:22-30
今朝の福音書朗読には、厳しい言葉が並んでいます。厳しい言葉が並ぶ理由の一つは、今日の箇所が置かれている文脈に関係しています。
ルカ福音書の12章と13章に共通するテーマは終末論です。もう少し具体的に言いますと、12章と13章を貫いているのは、「ナザレのイエスが語った言葉に対する応答によって、最後の審判における人々の運命が決まる」という主張です。この共通のテーマが、様々なアレンジで展開されているのです。
バッハの作品に似ていると言えなくもありません。バッハは膨大な数の作品を残していますが、同じパターンが色々な作品の中で、アレンジを変えて現れます。例えば、聖歌集の145番に収められている、有名な「血潮したたる」のメロディーは、少なくとも10の作品の中で、7つの異なるアレンジで現れます。
「終末論」を一つのメロディーに例えれば、ルカの12章と13章の中で、同じメロディーが様々なアレンジで現れていると言うことができるかと思います。
「神の国」が完成する時には、父祖アブラハム、イサク、ヤコブや預言者と共に、「東から西から、また北から南から」、つまり世界中から招かれた人々が、宴会の席に着きます。
ところが、「自分たちは当然、この宴会の席に就くことができる」と思っている人たちは、宴会の席から閉め出されています。
閉め出された人たちが、『ご一緒に食べたり飲んだりしましたし、私たちの大通りで教えを受けたのです』と言って訴えている相手は、神様です。しかし、この人たちに向かって神様は、『お前たちがどこの者か知らない。不正を働く者ども、皆私から離れよ』と言っているのです。
閉め出された人たちが、一体、どんな「不正」を働いたのかは何も書かれていません。しかし、閉め出された人たちは、イエス様が語る神の国の福音を退けた人たちであり、イエス様に敵対した人々であることは確かです。
神の国の福音を退け、イエス様に敵対した人々、それは「自分たちこそは神に受け入れられ、祝福を受けるに値する」と思っている人たちです。しかし、その人たちは神の国の宴会の席にいないのだ。そう、イエス様は言うのです。
入れると思っている者たちが外に放り出されて、入れないと思っている者たちが、どういうわけか宴会の席に就いている。そこに神の国の逆説が、神の国の神秘があります。
「24 狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」イエス様のこの言葉は、文字通りの意味と反対の方向に働きます。
「自分たちこそは神に受け入れられ、祝福を受けるに値する。」そう思っている人たちは、「自分たちこそ狭い戸口から入ろうとしている」とも思っています。実際、この人たちこそ、モーセによって与えられた「神の掟」を忠実に守り、聖い生活をし、神の祝福を受けるに値する者となるために、真剣に努力しているのです。
ところが、イエス様に言わせると、「狭い戸口」は、ユダヤ人の大部分が「狭い戸口」と思っているものとは違います。より正確な言い方をすれば、人が「これこそ神様に到達する道に違いない」と思う、如何なる「狭い戸口」を通っても、そこを通っては神様のもとに行けないのです。
神の国への招待状は、獲得できるようなものではなく、神の憐れみの故に、人に「与えられる」ものなのです。
神の憐れみの故に、単純に、贈り物として与えられる神の国の宴会の招待券。それが一体どんなことなのかを理解するヒントになればと思いつつ、3年前にもお話をした、私の子ども時代の経験をお話しさせていただきます。
小学校の2, 3年の時のことですが、私は稲田堤の自宅から、東長沼の祖母の家に向かって自転車を走らせていました。稲田堤から東長沼までというのは、南武線というローカル線で二駅です。
当時は、私と母が住んでいた川崎市の多摩区にも、祖母の家があった東京都稲城市にも、沢山の梨畑がありました。その日も、三沢川沿いのサイクリングロードをひたすら進んだ後、祖母の家から3, 4百メートル手前の梨畑の横を走っていました。
その時、梨畑を囲んでいる青いネットの外側に、大きな梨がひとつ飛び出しているのが目に止まりました。自転車でそこまで行ってみると、その梨は、手を伸ばせばすぐに届くところにありました。私は自転車から降りずに、その梨に手を伸ばしました。まさにその時です。
「ちょっと、ボク!」という女性の声が背ろから響いて、心臓が飛び出すほど驚きました。目の前の梨に気を取られて、周りに人がいるかどうか、まったく確認しなかったのです。
声のした方に顔を向けてみると、30代後半か40代前半くらいの女性が立っていて、「ちょっとこっちにいらっしゃい」と言われました。小さくなってその女性の後についていくと、梨園の販売所に連れて行かれました。
そこにはもう一人、初老の女性がいました。私はそこに置いてあったテーブルの前に座らされ、これから自分の身に何が起こるのかと思い巡らせていました。母親が呼ばれるのか、祖母が呼ばれるのか、あるいは警察が呼ばれるのか。いずれにしても、只事では済まない。そう覚悟していました。
ところが私を現行犯で捕まえた女性は、販売所にいた初老の女性に向かってこう言ったのです。「おかあさん、この子に梨を向いてあげて」と。私は一瞬、何が起きているのか理解できませんでした。
しばらくすると、ポカンと口を開けて固まっている私の前に、お皿に山盛りになった梨が出て来たではありませんか! そして、私を捕まえた女性は、穏やかな声で、こう言いました。「今度、梨が食べたくなったら、ちゃんと言いなさい。黙って取っちゃだめ。」
その時のバツの悪さ加減と、私の心の嵐については、今になってもどう表現したらいいのかわかりません。感謝と、喜びと、恥ずかしさと、悲しさと、逃げ出したいような気持ちとが、全部一つになったような感じとでも言う他ありません。
実は、私が梨に手を出したのは、梨を食べたいからではありませんでした。私はただ、梨をもいでみたかったのです。しかし、小学生の私は、今ほど図々しくはなかったので、「梨を食べさせてくれる代わりに、梨をもがせてください」とは言えませんでした。
私は、キレイに皮を剥かれて、切ってお皿に盛られた、大きくて甘い立派な梨を大急ぎ食べて、ゴメンナサイ、ゴメンナサイと謝って、梨園を後にしました。
あの日、梨園に招かれて食べさせてもらったあの梨は、私にとって、何にも代えられない、神様の憐れみの、神の国のシンボルとなりました。あの梨は、受けるに値しない者に与えられた恵そのものです。
「自分はこれを受けるに値しない。」そう知っている人にとって、恵みは「驚き」として現れます。そして、受けるに値しない恵を受けた時に人が感じるのは、感謝です。それ以外の何ものでもありません。
神の国のパーティーへの招待状。それは、小学生の私に与えられた、あの梨と同じような、神様からの恵みです。神様は私たちに、小学生の重太郎少年が受けた恵みよりも、はるかに大きな恵みを、神の国のパーティーへの招待状という恵みを与えられました。
神の憐れみの故に恵みを受けた私たちが、憐れみをもって与える者とされることによって、人々が憐れみ深い神と出会うことができますように。
そして、感謝をもって与え合う、神の民の交わりの輪が広がりますように。