聖霊降臨後第12主日 説教

2022年8月28日(日)聖霊降臨後第12(特定17)主日

シラ10:12-18; 46; ヘブ 13:1-8;ルカ 14:1, 7-14

今朝の福音書朗読では、イエス様がファリサイ派の議員の家に食事に招かれて、そこで話をしたという設定になっています。

イエス様は食事の席で、2つの話をしています。最初の話は7節から11節までの部分で、イエス様と共に食事の席についていた他の招待客たちに向けて語られています。

イエス様は、招待客が我先にと上席に座るのを見て、祝宴の席に招かれた時には、末席に着くようにと勧めます。

上席に陣取ったところへ祝宴の主催者がやって来て、もっと重要なゲストがいるので、この人に席を譲ってくださいと言われたなら、あなたは上座から末席に移動する羽目になって、著しく面目を失うことになる。しかし、最初に末席に座っているところに招待者がやって来て、上座に移動することになったなら、面目を立てることになる。

イエス様のこの最初のお話は、いわゆる処世術と言えなくもありません。実際、ユダヤ教の知恵文学の中に、同じような勧めを見出すことができます。

例えば、箴言25章6節から7節には「6 王の前で高ぶらず、身分の高い人々の場に立とうとするな。7「上座に着け」と言われることは、高貴な人の前で席を下げられることにまさる」とあります。シラ書1章30節には、「うぬぼれるな、さもないと/転んで恥をかくことになる」とあります。

ところが、なんてことのない処世術と思われるイエス様の話は、もう一つの話と結びつくことで、知恵文学の限界を超えて、まったく新しい様相を、神の国の様相を帯びることになります。

イエス様は、今度は、自分を食事に呼んでくれた招待者に向かって話をします。

「普通の人がパーティーに呼びたいと思う人たち、友だち、兄弟、親類、近所の金持ちを呼んではならない。むしろ、パーティーを開く時には、後々お返しをすることのできない人たちを招け。」そうイエス様は言われます。

ここでイエス様がパーティーに呼ぶべき人たちとして挙げている人たちは、イエス様が宣べ伝えた神の国の姿と密接に結びついています。

神の国に最初に招かれ、祝宴の席につく人々は、私たちがパーティーに招きたいと思う人たちではありません。神様が最優先で、真っ先に神の国の祝宴に招くのは、この世にあっては光の当たらない人たちであり、見返りを期待できない故に、政治家たちからもその存在を無視されるような人々です。

ルカの福音書によれば、イエス様が宣べ伝えた神の国に「最初に入れられた」のは、羊飼いであり、貧しい者であり、病める者であり、身分の低い者であり、さらに徴税人や遊女や罪人です。この人たちは皆、ユダヤ教を土台とするイスラエル社会の中心にいる人々からは、穢れた者、神に呪われた者、滅びに定められた者として蔑まれ、イスラエル社会から捨てられた人々です。

日本社会は、ある意味では、イエス様の時代のイスラエル社会と非常に似ているところがあります。イスラエルの社会と同様、日本の人々も、メンツや人からの評価をやたらと気にしながら生きています。

また、誰と繋がっていると自分のキャリアの助けになるか、誰と付き合っていると自分の立場が有利になるか、どの政治家が自分に利権をもたらすか、そんな損得勘定と打算に満ち溢れているところも、イエス様の時代のイスラエルと似ています。

それはいわば、「お返し」、「返礼」を求める下心によって支配される社会です。しかし、神の国では、自分の行為に対する「お返し」や「返礼」という計算そのものが無意味になります。

「神の国の祝宴は、他の人たちは招かれていない特別なパーティーであり、そこに招かれた私たちは特別な存在なのだ。」私たちがそんな風に神の国のことを思い描いたとするなら、あるいは神の国についてそのように語るとするなら、それはイエス・キリストが宣べ伝えた「神の国」と、何の関係もありません。

「多くの人々が排除されているのに、自分たちだけは、そのパーティーに呼ばれているのだ!」もし、そこに誇りを感じているのだとすれば、それは「神の国の祝宴」ではありません。

つまり、ある人が「排除」されることを喜びの根拠とするような発想は、イエス様が語る神の国からも、イエスがアッバと呼んだ神からもかけ離れているのです。

神の国の祝宴の豊かさと喜びは、「自分が招かれているとは思っていなかった」人が、祝宴の席に着いていることを見出す驚きにあります。人種も、国籍も、文化も、職業も、地位も、家柄も、何もかもが違う人たちがすべて招かれているパーティー。それが神の国の祝宴です。

この祝宴の主催者である神は、私たちの社会的地位や、名誉や、財産や、業績によって、ある人々を招いたり、ある人々を排除したりする方ではありません。

では、私たちがパーティーを企画して、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招く時に、私たちが「幸いな者」となるのはなぜでしょうか?

それは、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招くなら、そのとき私たちは、神の国の豊かさと、その祝宴の主催者の姿を、世に現すことになるからです。

私たちが、合法的奴隷として搾取される外国人研修生や、人身売買によって日本に連れてこられて風俗産業で働かされる女性たちや、一人親家庭とその子どもたちや、様々なしょうがいを持つ人々を食卓に招き、共に喜び、歌い、食事を楽しむなら、その時、私たちの間に、神の国が現れ、祝宴の主催者である神が現れるのです。

イエス様が語る「幸い」、それは神の国とその祝宴の主催者である神を指し示す態度であり、生き方です。

神の国の祝宴の場にあっては、自分は招待客の中の上から何番目で、下から何番目のランクかなどということは、まったく問題になりません。神様は、私と誰かを比べて「お前はよくやってる」とか、「お前はまだまだ足りない」と言ったりもしません。イエス・キリストの父なる神は、この祝宴に招いたすべての者たちに、仕えることの内にある豊かさと、平和と、喜びを学ぶようにと命じます。

人のために仕え、人が喜ぶことに喜びを感じる人の集団が、最も平和で、最も深い喜びに満ちている。それこそイエス様が、自分の宣教活動を支えてくれた人々から、特に女性たちから学んだ確信でした。だからこそ主は、神の国にあっては、すべての人の僕となる人こそ、最も偉大な者だと言われるのです。

招待客に向けてイエス様が語られた言葉は、この神の国の中心的価値を言い表しているのであって、面目を立てるか、あるいは失うかが、本当の問題ではありません。

教会の存在意義は、教会の使命は、世が見捨てた者たち、世が目も向けない者たちを招き、共に喜びの食卓を囲むことを通して、この「幸い」を示すことにあります。

もし教会が、今現在、囲いの中に入っていない人々を招くことに喜びを見出すことができずに、「いつも変わらないメンバー」といることに居心地の良さを感じるようになっているとすれば、それは教会が存在意義を失い、使命を見失っているということになります。

願わくは主が、今年75周年を迎える聖マーガレット教会を、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人をパーティーに招き、神の国の豊かさとその主催者である神の愛と慈しみと恵みとを世に現す、「幸いな者」の群れとしてくださいますように。