




2022年9月11日(日)聖霊降臨後第14(特定19)主日
出エジプト32:1, 7-14; Iテモテ 1:12-17; ルカ 15:1-10
今朝の福音書朗読の始めに登場する、「徴税人や罪人」、そして「ファリサイ派の人々や律法学者たち」というのは、イスラエル社会で二つの絶対的に対立するカテゴリー分けられる人々です。
イエス様のもとにやって来て話を聞こうとした「徴税人や罪人」は、「穢れた者」のカテゴリーに入ります。それに対して、「ファリサイ派の人々や律法学者たち」は「聖い者」のカテゴリーに入ります。
この「聖いもの」と「穢れたもの」という二項対立は、今朝の福音書朗読箇所を理解するためだけではなくて、イエス様が福音書の中で語り、行っていることを理解するための鍵を握っています。
イエス様の時代、「聖いもの」と「穢れたもの」という二項対立はイスラエル社会は絶対的土台であり、ユダヤ教とはモーセの律法に従って聖さを追求することです。「聖いもの」と「穢れたもの」との分離がなぜそれほど重要なのかと言えば、神の祝福と呪いが、神に受け入れられるか、あるいは拒否されるかが、そこにかかっていると考えられていたからです。
神の掟とされるモーセの律法に従って聖くなれば神に受け入れられ、祝福が与えられる。律法に逆らって穢れた者となれば神に退けられ、呪われる。これがイエス様の時代の、ユダヤ人のものの考え方であり、イスラエル社会そのものも、聖いものと穢れたものの分離を目指して組み上げられていました。
1節に登場する徴税人と罪人と呼ばれる者たちは、イスラエル社会の指導的立場にある人たちから、律法に従って歩むことを放棄して、自ら汚れた者として生きることを選択した連中と見做されていました。徴税人や罪人は、イスラエルの数に入らないよそ者であり、律法を持たない異邦人どもよりも更に穢れた存在であり、神に呪われた、滅ぶべき者たちとして軽蔑されていました。
当然のことながら、ファリサイ派の人々も律法学者も、徴税人や罪人が自分たちに近づくことを絶対に許しませんでした。それは、律法が穢れた者と交わることを禁じているからであり、自らを汚すリスクを冒すことになるからです。
しかし、今日の福音書の箇所で、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「徴税人や罪人が近くに寄ってくるのを許して、自分が穢れるリスクを冒している」と言ってイエス様を非難しているのではありません。
2節で、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、こう言っています。「この人は罪人たちを受け入れ、一緒に食事をしている。」律法が穢れた者と交わることを禁じているにもかかわらず、イエス様は日常的に、徴税人や遊女や罪人と食事をしていました。ファリサイ派の人々も律法学者も、イエス様が罪人たちの仲間であることを知っていたのです。
繰り返しになりますが、律法は穢れた者と交わることを禁じており、イエス様は穢れた者たちの仲間として生きていたのですから、律法に照らせばイエス様は罪人であり穢れた者なのです。
では、イエス様はファリサイ派の人々や律法学者たちから、「この人は罪人たちを受け入れ、一緒に食事をしている」と言って非難された時、どのように応えたのでしょうか?
驚くことに、イエス様は、モーセの律法の新たな解釈を展開して、「私は穢れていないのだ!」と自己弁護を展開するというようなことを、一切していません。むしろイエス様は、譬え話を語って、ユダヤ人たちが知らない、まったく新しい神の姿を描きます。
一つ目の譬え話では、100匹の羊を所有している羊飼いが、迷子になった1匹の羊を探すために、99匹を置き去りにして出かけていきます。二つ目の譬え話では、全財産として10ドラクメしか持っていない貧しい女性が、必死になって失った1ドラクメ銀貨を探す姿が描かれます。
この二つの譬え話は、どちらもユダヤ人の日常生活から素材が採られていますが、そこで語られている内容は、現実には絶対にありえないことです。
99匹の羊を置き去りにして、迷い出した1匹の羊を探しに行く羊飼いなど、現実には存在しません。そんなことをすれば、たとえ迷子になった1匹が見つかったとしても、置いていった99匹を失うことになります。失われた1枚の銀貨を求めて、ランプ片手に真っ暗な家の中を探し回れば、残りの9枚の所在がわからなくなります。
羊飼いの行為も、女性の行為も、経済的利益と損失の計算を無意味にしてしまうほど馬鹿げています。失われた1匹の羊も、1枚の銀貨も、本来であれば取るに足らない損失として済ますべきものです。
99匹の羊が手元にまだいることを喜んで、失われたのがたった1匹で良かったと思うべきです。1枚の銀貨の行方がわからなくなったら、残りの9枚を無くさないようにするべきです。
しかし、もちろんイエス様だって、ご自分の話していることが、現実の世界で起こるようなことではないことは知っています。イエス様は、経済的リスク・ベネフィットの計算に見合わないような話を持ち出して、愛と慈しみにおいて限界を知らない神の姿を描きます。
更に、今日の2つの譬え話の中にはもう一つ重要なポイントがあります。それは、「取るに足らない」と見做されているものが「見出された」ときに神の内に沸き起こる喜びです。
イエス様の周りに集まってくる徴税人や罪人は、「ファリサイ派の人々や律法学者たち」にとって、いや、イスラエルの全ての有力者にとって「取るに足らない」者たちです。ユダヤ人指導者たちにとっては、イエス様の周りに集まってくる連中は穢れた者であり、神に呪われ、滅びるべき存在でした。ところがイエス様は、神に呪われ、滅ぼされるべき穢れた存在と見做されている人々を、神が探し周り、そしてその人々を見つけて喜ぶと言うのです。
もし神様がこの2つの譬え話に描かれているような神様だとすると、その神様はモーセの律法によって設定された聖なるものと汚れたものとの境界線そのものを無効にしてしまいます。それはモーセの律法をあらゆる権威の頂点に据えるイスラエルという社会のあり方そのものを否定することです。
ファリサイ派と律法学者に限らず、イスラエル社会の指導者と見做される人々は、ナザレのイエスの人気が更に高まり、人々に対する影響力が強くなったら、イスラエル社会が転覆してしまうと恐れました。その恐れは正しかったのです。
さて、もし私たちが信じている神は、99匹を置き去りにして、取るに足らぬ1匹を見つけようとし、そしてその取るに足らぬ1匹を見出した時に大喜びをしてくれる神であるということを、私たちがますます深く知ったなら、私たちの内にも、神に見出された喜びが湧き上がるはずです。
そして、この湧き上がる喜びこそが、神の国の祝宴に、多くの人を招きたいという原動力になるはずです。
教会の目指すべき姿は、失われたたった1枚のドラクメ銀貨を探し出し、友だちを招いて大喜びする女性に重ねられた神を、共同体の生き方を通して示すことです。
そのために、私たちを見出してくださった神が、私たちを喜びで満たしてくださいますように。
そして、この喜びの中に、さらに多くの人を招き、巻き込むことによって、聖マーガレット教会が神の家族として成長することができますように。