聖霊降臨後第15主日 説教

2022年9月18日(木)

聖霊降臨後第15(特定20)主日 アモス 8:4-7; Iテモテへ 2:1-8; ルカ 16:1-13

今日の福音書朗読は、イエス様の譬え話です。イエス様が神について、神と人との関係について、そして世界について語るとき、旧約聖書のテキストに基づいて話をすることは、まずありません。ごく稀に旧約聖書のテキストが引き合いに出されるとしても、それはイエス様が論争相手に応える文脈でだけです。

神の国の福音を中心とするイエス様の教えは、旧約聖書に基づいているのではなく、むしろイエス様自身に基づいています。そして、彼の教えはいつも、譬え話として、物語として展開されます。

今日の譬え話の中に出てくる「金持ちの主人」が神を表していることは容易に理解できると思いますが、「不正な管理人」は一体誰を表しているのでしょうか?

今朝の物語の聞き手を何よりも混乱させる要因は、神を表しているはずの「金持ちの主人」が、「不正な管理人」を称賛していることでしょう。

「正しい神様が、不正な管理人を称賛するなんてことがあっていいのか!」そう疑問が湧いてきます。

しかも、この主人が不正な管理人の「賢いやり方」を褒めているということは、管理人がバランスシートを改竄して借金を勝手に減額していることを知っていたことになります。そうすると、金持ちの主人は、不正が行われているプロセスを知っていながら、不正な管理人を止めなかったという話になります。そして益々、この物語が一体何を言おうとしているのかわからなくなります。

恐らく、今日の物語を理解する鍵は、イエス様にとって、「富を蓄積する」という営みが何を意味したかということを知ることにあると思います。

イエス様の世界観に従って言えば、世界は神のものであり、その中にあるすべてのものは神のものです。神が創造された世界を園に例えるとすれば、人はこの園の管理者であって、所有者ではありません。所有者である神は管理者である人に、園の豊かな果実を楽しむことを許しておられます。それは恵みであり、祝福です。

また神は人に、この園が荒れ果ててしまわないように、手入れをし、適切に管理する責任をお与えになられました。ところが管理者である人間が、園の果実を独り占めしようとするようになります。そのとき人は、管理者としての責任を放棄して、園を荒れ果てさせてでも、園の果実を、園の富を、自分のために蓄積しようとします。

ですから、イエス様にとっては、人が自分のために富を積み上げるという営みには、管理者としての責任を放棄して園を荒れ果てさせ、持ち主である主人の財産を毀損する不正が内在していることになります。

端的に言えば、イエス様にとって、不正無き富の蓄積というのはないのです。富が積み上がるところにはかならず不正があり、それによって貧しくされ、命を脅かされる人々がいます。

イエス様は、この世の経済システムの中心に巨大な悪が巣食っていることを知っていました。その巨大な悪が現在、森林伐採、大規模な環境破壊を伴う資源採掘、川や海に溢れるプラスティックゴミ、気候変動による永久凍土の消失、海面上昇、洪水、干ばつによる世界規模での食糧難、水をめぐる世界の対立として現れています。

しかしイエス様は、マルクスのように、暴力革命を通して経済システムを転覆させるということを目指してはいませんでした。それどころかイエス様は、どのような手段によって富が蓄えられたかということに、まったく関心がありませんでした。

巡回伝道師だったイエス様は、家も財産も持ってはいませんでした。しかしイエス様と十二弟子たちに宣教活動の拠点を提供し、食事を提供し、そして旅の途上で必要な食事を買うための経済的サポートを提供したのは、財産のある弟子たちです。

しかも、財産を所有していた弟子たちの多くは、徴税人に代表される「罪人」たちでした。彼らはイエス様の弟子になったからと言って、財産を放棄したわけではありません。

例えば、ルカ福音書の5章には、イエス様が徴税人のレビを弟子にする話が出てきます。そこに、レビは「何もかも捨てて」イエス様に従ったと記されていますが、その直後に、レビは自分の家で、イエス様のために大宴会を開いています。

イエス様のために「何もかも捨てる」ことは、文字通り「何もかも捨てる」ことを意味していないことがわかります。しかもイエス様は、「お前がこの大宴会を開くために使った金は、人々から騙して巻き上げたものではないのか?」とも聞いていません。

イエス様は、すでに積み上がってしまっている富が、どのようにして生まれたのかには、まったく関心が無いのです。

今朝の福音書朗読の中で、主人は「不正な管理人」を賞賛していますが、主人がこの管理人を褒めるのは「不正」のためではなく、彼の「賢さ」の故です。そしてルカは、主人が称賛する「不正な管理人」の「賢さ」を、「光の子ら」が身につけるようにと勧めます。

協会共同訳が「賢い」と訳しているのは、 ‘φρονίμως’ という言葉です。これは原理とか原則を、つまり学んだことを、現実の場面で応用して目標を達成する、実践的な知恵があることを示します。

ルカは、「この世の子ら」は、不正な富を用いて、自己破産に陥っても自分を助けてくれるような仲間のネットワークを作り出すことに長けていると言います。

しかし、残念ながら、「光の子ら」、イエスの弟子たちは、不正な富を用いて仲間を守るネットワークを作ることに関して、この世の子らに圧倒的に劣っている。そう言って、ルカは嘆いているのです。

イエス様にとって「正しく蓄積した富」と「不正に蓄積した富」という区別はありません。富が積み上がっている限り、それはすべて「不正な富」です。しかし、富の蓄積に不正が伴っていることを知った上で、光の子たちは、「仲間」が破綻しないようなコミュニティーを、セーフィティーネットを作らなくてはなりません。

そのためには、不正な管理人が「友達」を作るときに示す「賢さ」を、光の子たちも持ち合わせていなくてはならないとルカは言うのです。

イエス様の時代のローマ帝国では、借金が払えなくなれば、自分も家族も奴隷として売ることになります。借金が払えなければ、文字通り、破綻するわけです。

不正な管理人は、管理人としての職を失ったときに自分を受け入れてくれる仲間を作ると同時に、自己破産するかもしれない仲間の借金を減額することで、仲間を救済するという2つのことを、同時に行なっています。ここに、管理人の「賢さ」があります。

彼はまさに、主人の財産を毀損して得た不正な富によって友を作り、自分も助けてもらうためのセーフィティーネットを作り出しています。

光の子らは、イエスの弟子たちは、富を蓄積しようとする者たちによって貧しくされ、命を脅かされている人々を友として迎え入れ、彼らが破綻せずに、生きていける共同体となることを、使命として与えられています。

これを実現するためには、不正に積み上げた富を、富を積み上げるプロセスの中で犠牲にした人たちのために用いることのできる人たちを見出し、仲間に加えることも必要です。

富の蓄積を目指すこの世の経済活動によって搾取され、貧しくされた者が、破綻せずに生きていける共同体は、この世の最も貧しい者が守られ、食っていけるような経済のあり方を見出した共同体です。

それは聖マーガレット教会が見出すべき共同体の在り方であり、聖マーガレット教会が見出すべき経済活動の姿です。

それは同時に、「年を重ねた人たちが若い人たちを育て、彼らの活躍を喜び、若い人たちが年を重ねる人たちを思いやり、労わり、一緒に食卓を囲んで笑い合う」、神の国のコミュニティーともなるはずです。

互いに祈りあい、支え合い、共に生きる、真の神の国のコミュニティーへと生まれ変わるめに必要な知恵と「賢さ」を、主が私たちに与えてくださいますように。