





2022年9月25日(日)聖霊降臨後第16(特定21)主日
アモス 6:1-7; Iテモテ6:11-19; ルカ16:19-31
私は、小学校時代のある時期、多分、小学校1年の後半から4年生くらいまでの間だったと思うのですが、母に連れられて赤坂の日本基督教団の教会に通っていた時期があります。非常に伝道熱心な教会で、大学生から30代までの青年が沢山いました。
そして、ある日曜日の午後、青年たちが中心になって路傍伝道に出かけました。大太鼓を叩いて讃美歌を歌いながら通りを進み、すぐ近所にある氷川公園で、日曜学校の先生が子どもたちに日曜学校のトラクトを配っていました。その時、その公園で、私は初めてホームレスの方に出会いました。日曜学校の先生をしていた大学生の青年と一緒に、ビニール袋に入った食料をその人に渡したのを覚えています。
その頃の私には、まだ母親が心を病んで仕事を辞めて引きこもる前だったので、ひとり親の超貧困家庭ではあったものの、一応、住む家があって、食べるものもありました。
しかし、40代か50代前半と思われる男性が、住む家も食べるものも無くて、公園を拠点に寝泊まりをしているという現実を初めて知り、子どもながらに、私の心は激しく揺さぶられました。それは深い悲しみと、この世界は何かが間違っているという激しい怒りとが混じり合ったような感情でした。
誰も私に、恵まれない境遇の人に出会ったら気の毒に思いなさいとか、憐れみの心を持ちなさいなんてことを教えてはいなかったと思います。けれども私の心は、生きることもままならない人がいるという現実を知って、激しく揺れ動きました。
同じような感覚が長男のTにも備わっていることに、彼が小学校の低学年のころ気付きました。親がことさらに教えたわけではないのに、彼は駅前や街頭で募金活動をしている場面に居合わせると、「募金してきていい?」と言って、やたらと募金をする子になっていました。
マーガレットの牧師館に引っ越して来て間も無ない頃に、こんなことがありました。学校帰りに三鷹台の駅から女学院前の坂を登っているとき、Tの前に大きな荷物を抱えたホームレスの人が歩いていたそうです。いてもたってもいられなくなったものの、高校生からお金を渡されてもプライドが傷つくんじゃないかと思った彼は、先回りして500円玉を落としておいて、ホームレスの方がそれを見つけて拾ってくれるかどうか、こっそり見守っていたそうです。
「無事に見つけて、ちゃんと拾ってくれて良かった」と話している息子の姿を見ながら、自分が初めてホームレスの方に出会った時に感じた激しい心の動揺を思い出しました。
恐らく、憐れみの心というのは、人間が人間として生きる上で、もっとも重要な ‘common-sense’ 、「共通の感覚」なのでしょう。そしてイエス様は、「憐れみの心」という「共通感覚」こそ、神の国に入るために必要な、唯一にして絶対的な条件だと見做しておられました。
今朝の福音書朗読は、かの有名な金持ちとラザロの話ですが、一言で言えば、イエス様はこの話を通して、憐れみの心を持たない者は、決して神の国に入れないと宣言しています。
この物語に出てくる金持ちは、ラザロに暴力を振るっているわけでも、強制労働をさせているわけでも、極悪なことをしているわけでもありません。むしろ、「だれもが羨む生活」を体現していたとすら言えるでしょう。
金持ちは、単に生活に困らないとか、暮らし向きがいいというようなレベルで豊かなのではありません。「派手な生活を楽しんでいた」という1節の言葉は、金持ちの贅沢な暮らし振りを表しています。そして「紫の布」と「上質の亜麻布」は、莫大な富を人々に誇示するための道具です。この金持ちは、日々の糧を得て、人間らしく、豊かに生きるという次元を遥かに超えて、生活を「飾り」、「ひけらかす」ために富を用いるすべての人間を代表しています。
他方、ラザロの方も、特に道徳的に優れていたと伺わせるような記述は何一つありません。ラザロについて特に際立っているのは、貧しさと悲惨さです。ラザロは、金持ちの食卓から落ちてくるパン屑で腹を満たすことを夢見ながら、金持ちの邸宅の門の前に、生きながら死んだ者のようにして横たわっています。
イエス様の時代のイスラエルには「犬好き」な人というのはいません。犬はもっとも嫌悪される動物であり、「犬に舐められる」ということは、もっとも屈辱的な出来事です。ラザロは貧しく、日々の糧も無く、病に冒され、この世の支配者とこの世の成功を求める者たちから、存在しないかのように扱われるすべての人々を代表しています。
イエス様は、自分が宣べ伝え、自分の働きを通してその到来が示されている神の国においては、この世のすべてが転倒する、ひっくり返ると信じていました。
死んだ後、ラザロは神の使いたちに担われてアブラハムの懐へと連れて行かれ、金持ちは陰府の燃えさかる炎の中に放り込まれて悶え苦しんでいる。この描写は、神の国ではこの世のすべてがひっくり返るのだというイエス様の確信を表しています。
しかし金持ちを陰府の燃える炎の中に放り込んで苦しませているのは、実は富ではありません。この金持ちは、ラザロに対する無関心の故に、燃える炎の苦しみの中にいるのです。金持ちが陰府の世界で味わっているとされる苦しみは、生前のラザロの苦しみとパラレルになっています。
生前、金持ちは、ラザロの苦しみに対して全く無関心でした。彼にとって、ラザロは人として存在していませんでした。ラザロの悲劇は、金持ちにとって日常の光景に過ぎなかったのです。ところがラザロの苦しみに無関心を貫き、パン屑一つさえ与えようとしなかった金持ちが、陰府で憐れみを乞い、自分が哀れみの心を向けることのなかったラザロを自分のところに遣わすようにとアブラハムに懇願します。
ここにはイエス様の皮肉が込められています。
この世で富と贅沢な暮らしを追い求める者たちは、貧しい者たちを生み出し、貧しい者たちを苦しめていながら、彼らの貧しさにも苦しみにも無関心です。それどころか、この世の富と贅沢な暮らしを追い求める者たちは、貧しい者たちを自分たちの「道具」としか見做していません。
だからこそ、陰府で苦しむ金持ちは、自分が憐れむことのなかったラザロを自分のところに送り、ラザロの指を水に浸し、自分の苦しみを和らげるようにと要求することができるのです。
しかし、イエス様は、陰府の金持ちとアブラハムの懐にいるラザロとの間には、決して超えることのできない断絶があると言います。そう言われてもなお、金持ちは自分が憐れむことの無かったラザロを使って、自分の兄弟が、自分の身内が苦しまなくて済むようにしようとします。金持ちの口からは、ラザロを憐れまなかったことを悔いる言葉は一言も聞かれず、金持ちの関心は死してなお、自分の血縁にしか向けられていません。
今朝の福音書朗読の中でイエス様が示しておられるのは、憐れみのないところに命はないという単純な事実です。憐れみの無いところにも生物学的な命はあるでしょう。けれども、憐れみの無いところには、祝宴の喜びに象徴されるような、満ち足りた、豊かな命は無いのです。
イエス・キリストが宣べ伝え、到来させた神の国は、すべての人が神によって招かれ、共に飲んで、共に食べて、心から喜ぶ祝宴です。それは富を追い求める誘惑と血縁主義を乗り越えた向こう側に現れる命の充満です。
富を追い求める誘惑と血縁主義を乗り越えさせてくれるもの。それこそが、豊かな命を生きるために神が与えてくださった「共通感覚」、憐れみの心です。憐れみの心によって、富を追い求める誘惑と血縁主義から解放されることによって、教会は神の国の祝宴の豊かさを現す共同体とされます。
憐れみの心が私たちの中から失われることのないように、死者の中から復活された主イエス・キリストの声に聞き、共に歩んでいくことができますように。