




2022年10月2日(日)聖霊降臨後第17(特定22)主日
ハバクク 1:1-4, 2:1-4;Ⅱテモテ1:6-14; ルカ17:5-10
昨今巷を騒がせている統一教会の日本総会長が、群馬県で開かれたある会合の中で、東日本大震災のときに福島を襲った津波について触れていました。
福島を襲った巨大な津波は東京にも来るはずだったけれども、総会長の彼はこう祈ったそうです。「神様、東京に住んでいる祝福家庭、統一教会のメンバーたちが滅びることになってしまいます。津波が襲うのは仙台・福島で我慢してください。」
そうすると神様は、「このくらい」で日本は悔い改めるだろう、教祖夫妻の日本入国も許可するだろう、と思い直して、東京に津波を到来させるのを止めたのだそうです。要するに、自分の祈りが東京を襲うはずだった津波を止めたというわけです。
「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『根を抜き、海に植われ』と言えば、言うことを聞くであろう。」
「信仰があればなんでもできる」「信仰があれば不可能も可能になる」と語るこの格言は、「山を動かす信仰」として知られています。これはイエス様独自のものではなく、当時、一般的に流通していた格言のようです。
福音書と呼ばれる4つ書物の中で、一番最初に書かれたのはマルコ福音書ですが、その11章23節にはこのようにあります。「誰でもこの山に向かって、『動いて、海に入れ』と言い、心の中で少しも疑わず、言ったとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」
この格言は、共観福音書の中に4回、正典の中には入らなかったトマス福音書の中に2回、そしてコリントの信徒への手紙一の13章2節にも出てきます。どういうわけか、ルカだけが、「山」を「桑の木」と読み替えていますが、内容的には同じです。
格言はことわざと似たようなものですから、本来の文脈というものがありません。むしろ、ことわざや格言というのは、どのような文脈で使われても構わないわけです。実際、「山を動かす信仰」の格言は、共観福音書の中でも、トマス福音書の中でも、コリントの信徒への手紙一の中でも、相互にまったく異なる文脈の中に置かれています。
福音書の中には、一つのエピソードとして読もうとしても、話の筋がまったく通らないような箇所がたくさんあります。今日の箇所も、話の筋が通らない箇所の一つで、5節と6節の内容は、その前の1節から4節までの内容とも、その後の7節から10節とも断絶しています。
福音書の中に、筋が通らない箇所が沢山ある理由は、福音書というのは、私たちが思い浮かべる普通の「本」とは、成り立ちが全く異なるからです。少々乱暴な表現ですが、福音書を書くという作業は、料理に似ています。
冷蔵庫の中に、牛肉のコマ切れと、じゃがいもと、玉ねぎと、人参があって、今日の晩御飯は冷蔵庫にある材料で済ませようということになったとします。使える材料は決まっていますが、それをどう調理するかは、料理人の裁量で、カレーでも、ハヤシライスでも、シチューも、あるいは肉じゃがでも作れます。
福音書を書くと言う作業も、それに似ています。福音書を書くための材料の大部分は、福音書を書いた人が直接見聞きしたことでも、自分で考えたことでもありません。一つ一つの素材は、さまざまな教会の中で語られ、そして受け継がれて来た小さな断片です。その断片を繋ぎ合わせて話の筋を生み出すのは、福音書の著者であり、編集者たちです。
ですから、福音書の物語の筋として展開される時の流れと、イエス様の生涯の歴史的な時間の流れとの間には、直接的な繋がりはありません。
今朝の福音書朗読の箇所では、5節、6節の部分と、7節から10節の部分は繋がっていません。7節から10節の部分は、奴隷制度を擁護するための箇所でも無ければ、人間を役立たずで無用な存在として貶(おとし)めるための箇所でもありません。
7節から10節の話は、マタイ福音書にもマルコ福音書にもない、ルカ福音書オリジナルで、ルカはこれを通して、イエス・キリストの弟子たちが、どんな集団でなければならないのかを語ろうとしています。
教会には、「主」は一人しかいません。それはイエス・キリストです。教会のメンバーはあまねく、一人の主、イエス・キリストの僕です。「僕は主人に仕えるために存在しているのだ。」ルカは、教会のすべてのメンバーに、このことを共有してほしいと思っているのです。
私なりに、ルカがここで言っていることを翻訳すれば、教会は「仕えてもらいたい人」、「してもらいたい人」が一人も居なくなって、すべてのメンバーが「仕える」人になることを追い求める共同体だ、ということになります。
これは教会という共同体が、どんなコミュニティーになるかということを考える上で、最も重要なことなのに、最も理解されていないことでもあります。
ですから、もう一度繰り返します。教会というコミュニティーは、「仕えてもらいたい人」が一人も居なくなって、「してもらいたい人」が一人も居なくなって、すべてのメンバーが「仕える」人になることを目指しているのです。
ルカの時代の教会とて、完璧だったわけではありません。現代の教会と同じ問題が、ルカの時代の教会にもありました。
ルカが所属していた教会にも、自分がしてもらうことにばかり関心があって、共同体のために働く気の全く無いメンバーがいました。あるいは恩を売って見返りを期待したり、自分が感謝されたり、賞賛されたりすることを常に求めるような人たちも教会にいたのでしょう。
しかし、もし教会が、「してもらいたい人」「仕えてもらいたい人」「見返りを期待する人」、そして自分が賞賛されることを求める人たちの集団になってしまったら、その教会からは、神の国の祝宴の豊かさも喜びも消えてしまいます。なぜなら、神の国は、互いに仕え合うところにしか現れないからです。
しかも、「仕えてもらいたい人」「してもらいたい人」に溢れる集団の中では、貧しい者と弱い者が真っ先に捨てられます。そうなれば、もはや世の光であることも、地の塩であるあることも止めて、神の国の喜びと豊かさを示すための役に立たない集団となってしまいます。
祈りによって桑の木を根っこから引き抜くことが、信仰の有無を決定するのだとすれば、私には信仰がありません。残念ながら、私は自分の祈りによって、牧師館の雑草一本すら抜くことができません。
そもそも私は、神様が私たち一人ひとりの祈りを聞いてくださると信じてはいますが、どんなに強い信仰があったとしても、「山が移る」ことも、地球が逆回転することもないと信じています。
「毎日毎日祈ったら、絶対無理だと言われていた超難関大学に合格しました。」「断食して祈ったら、ガンが癒やされました。」「あなたは信仰が弱くてサタンにつけいる隙を与えたから、心の病気になったんです。」そんな話が飛び交う教会が、力強い信仰者の集まりだとは、私には思えません。むしろ、そんなことが力強い信仰のしるしと見做されるのであれば、そんな信仰は無くていいと思います。
祈りによってタンポポ一本すら抜くことができない人しか聖マーガレット教会にいないとしても、私はそれで良いと思います。
むしろ私は、聖マーガレット教会が、病に苦しむ人や、貧困家庭の子どもたちや、子育てに行き詰まる未婚の母や、一人ぼっちの老人たちが集まるコミュニティーとなれたなら、そこにこそイエス・キリストに対する本当の信仰があると言えるのだと思います。
「私たちはただ、イエス様に言われたことをしているだけです。何も特別なことはしていません。」そう言える人たちで、聖マーガレット教会が一杯になりますように。