聖霊降臨後第18主日 説教

2022年10月9日(日)聖霊降臨後第18(特定23)主日

ルツ 1:8-19a; IIテモテ 2:8-15; ルカ 17:11-19

今朝の福音書朗読は、とても有名な「10人のレプラ患者の癒し」の物語です。私が今、「レプラ患者」と訳した部分は、今年のイースターから用い始めた聖書協会共同訳では「既定の病を患っている」と訳されています。

新約聖書のギリシア語テキストは基本的に変わっていないわけですが、ギリシア語の ‘λέπρα’ という病気と、この病を患っている者を表す ‘λεπρός’ という言葉の訳語は激しい変遷を経ています。

ギリシア語のλέπραは、かつては「らい病」と訳されて、ハンセン氏病と同一視されていました。しかし、聖書に出てくる ‘λέπρα’ は必ずしもハンセン病とは言えないという説が出てくるとともに、らい病患者に対する差別の歴史を考えると、‘λέπρα’ を「らい病」と訳すことは避けるべきだということになりました。

そして、「らい病」から「重い皮膚病」を経て、協会共同訳では「既定の病」という訳語になりました。「ハンセン氏病」との同一視に繋がらないような訳語にしようという難しい選択があったと思いますが、「既定の病」という言葉からは、この病がどのようなものだったのか、まったくイメージすることができません。

しかし ‘λέπρα’ がどんな病であったにしろ、この病に冒された人々は「汚れた者」として排除され、あらゆる人間共同体から切り離され、人として生きることが許されなかったという事実は変わりません。レプラの患者たちは、イスラエル社会から、町から、村から、家族から捨てられ、ただ死を待つほかありませんでした。

それは同時に、神の裁きにあっていること、神から捨てられたこと、あるいは呪われた者となったことを意味しました。レプラ患者たちは、肉体的には生きていても、社会的にはすでに死んだ者として扱われていたといっても過言ではないでしょう。

神の掟とされる旧約聖書の律法は、レプラの人々が村や町の門に近づく時は、人々に向かって、「汚れた者です」と自ら宣言しなければならないと定めています。

レビ記13章45節から46節にはこう書かれています。「規定の病にかかった人は衣服を引き裂き、髪を垂らさなければならない。また口ひげを覆って、『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない。その患部があるかぎり、その人は汚れている。宿営の外で、独り離れて住まなければならない。」

今日の福音書朗読の物語に現れる10人のレプラ患者が、「遠くに立ったまま」イエス様に向かって叫んでいるのは、彼らは街に入ることを許されていないからです。

この物語はルカ福音書独自のもので、この物語を通して語りたい何かが、ルカにはありました。結論を先に言えば、ルカはこの物語を通して2つのことを示そうとしています。

第1のポイントは、自分たちは神に受け入れられていると思っている人々が、「あの連中は神に受け入れられない」と見なしている人々を、神は受け入れておられ、この人々こそが神を賛美し、神に感謝を献げるようになるということです。

第2のポイントは、自分たちは神に受け入れられていると思っている者たちには、イエス様を通して働いている神の働きが見えていなということです。神の働きを神の働きとして見ることができないということは、神を知らないということであり、神を退けているということでもあります。

10人のレプラ患者。この人々は、汚れてるが故に神に受け入れられないと見なされている者たちすべてを表していますが、ルカはそこに一つ、大きな捻りを加えます。

北のガリラヤから南のエルサレムに向かう場合、その中間に位置するサマリアを「通過する」ことになります。ところが11節には、イエス様が「エルサレムに進んで行く途中、サマリアとガリラヤの間を通られた」とあります。これはまったくあり得ない地理的な移動です。

ルカが極めて不正確な地理的描写を持ち出してまでしたかったことは、10人のレプラ患者の中にサマリア人がいたと言うことです。そして、この物語を理解するための鍵を握っているのは、たった一人のサマリア人です。

10人のレプラ患者は皆「汚れた者」たちです。9人のユダヤ人も1人のサマリア人も、等しく「聖くない」わけです。みんなが汚れていて、聖くないのであれば、ユダヤ人とサマリア人との区別に意味はありません。

しかしイエス様は、10人の「汚れた者たち」に向かって、祭司たちに体を見せるようにと命じます。このイエス様の言葉は、神の掟とされる律法が、汚れと聖さの判定を祭司に委ねていることを反映しています。しかし、祭司にできることは判定を下すことだけで、レプラ患者を「聖く」することはできません。

ルカの描写によれば、10人の「汚れた者たち」、レプラ患者たちは、イエス様の言葉を聞いて歩いている間に皆「清く」されています。

私はむしろ、イエス様はここで、10人のレプラ患者を、神に受け入れられる者として送り出したのだと思います。9人のユダヤ人も、1人のサマリア人も、「清い」者として、神様に受け入れられている者として、イエス様から送り出されているのです。

けれども、同じように神に愛され、受け入れられているはずの10人の中から、1人のサマリア人だけが、大声で神を崇めながら、賛美しながら、イエス様のもとに戻って来て、イエス様に感謝を献げました。

これは何を表しているのでしょうか?もちろんここには、「自分は神の側にいる」、「自分は神に受け入れられている」と思っている者は、本当は神のことを知らないのだという、ルカの皮肉も込められています。

しかし、イエス様のところに戻って来て、感謝と讃美をささげるこのサマリア人を通して表されているのは、神様に受け入れられ、神様に愛されているということを、恵みとして経験するときにしか、本当の感謝と讃美は生まれないということではないでしょうか。

「自分は神様に受け入れられるに値する」という思いは、「自分の努力によって、神様に愛されるようになった」と考えているということです。

「愛されること」、「受け入れられること」が、私の達成したことであり、私の成果であるなら、感謝をささげる理由はありません。

「愛されること」が、「受け入れられること」が、私の力によって成し遂げたことであるなら、そこに生まれるのは感謝でも讃美でもなく、達成感です。「やり遂げたぞ!」という想いです。

恐らく今日の譬え話は、「あいつは受け入れてもらえないけれど、オレは受け入れてもらえるんだ」、そう思っているうちは、私たちはイエス様が示された神をまだ知らないし、感謝も讃美も生まれないということを教えているのでしょう。

願わくは今日、この礼拝の中で、神様に愛され、受け入れられていることを、恵みとして経験することができますように。そして私たちのうちに、感謝と賛美が溢れますように。