10月12日 中高礼拝 説教

10月12日(水)中高礼拝 ルカ17:11-19

今読まれた話の中で、「重い皮膚病」と訳されているのは、ギリシア語の ‘λέπρα’ という病気です。ギリシア語のλέπραは、かつては「ライ病」と訳されて、ハンセン氏病と同一視されていました。

しかし、聖書に出てくる ‘λέπρα’ は必ずしもハンセン病とは言えないという説が出てくるとともに、らい病患者に対する差別の歴史を考えると、‘λέπρα’ を「らい病」と訳すことは避けるべきだということになりました。

しかし ‘λέπρα’ がどんな病であったにしろ、この病に冒された人々はイスラエル社会から「汚れた者」として排除され、あらゆる人間共同体から切り離され、人として生きることが許されなかったという事実は変わりません。

レプラの患者たちは、町から、村から、家族から捨てられ、ただ死を待つ存在でした。彼らは肉体的には「まだ」生きていたとしても、社会的にはすでに死んだ者として扱われていたといっても過言ではないでしょう

今日の物語を理解するための鍵を握っているのは、10人のレプラ患者の中にいた、たった一人のサマリア人です。

イエス様は民族的にはユダヤ人ですが、ユダヤ人とサマリア人の間には凄まじい敵意がありました。互いに対する憎悪は、紀元前922年の北イスラエル王国と南ユダ王国の分裂にまで遡るほど長く、時には戦争に発展するほど激しく、しょっちゅう流血沙汰になっていました。

ユダヤ人たちは、「サマリア人は異教徒たちと混血して汚れた者となった。もはや連中は神の民ではない。」そう思っていました。

しかしレプラという病は、ユダヤ人とサマリア人との区別を無意味にします。なぜなら、神の掟とされる旧約聖書の律法が、レプラにかかった者は「汚れている」と定めているからです。

ルカが9人のユダヤ人と1人とサマリア人を「レプラ患者」として、つまり「汚れた者」として登場させているのは、「自分は神様の掟を守って聖い生活をしているから、神様に受け入れてもらえるんだ」と言わせないためです。

イエス様は、10人の「汚れた者たち」、つまりレプラ患者に向かって、祭司たちに体を見せるようにと命じます。すると彼らは、道を歩いている途中で「清く」されます。「清くされる」ということは、神様に受け入れられるようになるということです。

イエス様はここで、9人のユダヤ人と、1人のサマリア人を、「清い」者として、神様に受け入れられている者として送り出しているのです。

けれども、同じように神様に愛され、受け入れられているはずの10人の中から、大声で神様を賛えながらイエス様のもとに戻って来て感謝を献げたのは、ユダヤ人から「汚れた者」として嫌悪されている、1人のサマリア人だけでした。

このサマリア人を通して表されているのは、神様に受け入れられ、神様に愛されていることを、恵みとして経験するときにしか、本当の感謝と讃美は生まれないということです。

「自分は神様に受け入れられるに値する」という思いは、「自分の努力によって、神様に愛されるようになった」と考えているということです。

「愛されること」、「受け入れられること」が、私の達成したことであり、私の成果であるなら、感謝をささげる理由はありません。

「愛されること」が、「受け入れられること」が、私の力によって成し遂げたことであるなら、そこに生まれるのは感謝でも讃美でもなく、達成感です。「やり遂げたぞ!」という想いです。

しかし、誰も自分の力によって神様の愛を獲得することなどできません。努力の結果として、神様に受け入れられるようになることもありません。

皆さんが神様に受け入れられているのは、神様が一人一人の存在を愛おしく思っているからです。

この学校で皆さんが過ごす時が、神様の愛と、神様の慈しみ経験する時でありますように。

そして皆さんの中に、イエス様を通して、ご自分の愛と恵みと慈しみを知らせてくださった神様への感謝と賛美が湧き起こりますように。