











2022年10月16日特定24主日
創世記 32:4-9,23-31; IIテモテ 3:14-4:5; ルカ 18:1-8a
今朝の福音書朗読のエピソードも、他の福音書には無い、ルカ福音書オリジナルのものです。今日のイエス様の例え話に登場する「やもめは」は、社会の中で最も傷つきやすく、生活を脅かされている存在の象徴です。
紀元前8世紀のギリシアの詩人ホメロスは、『イリアス』という作品の中で、略奪され、住人のいなくなった荒廃した街のことを、‘χήρα’ 「やもめ」と呼んでいます。
今朝のイエス様の譬え話に出てくるやもめが、何を訴えていたのか書かれてはいませんが、きっと彼女も略奪され、生きる術を失いかけていたのでしょう。もっともありそうな想定は、彼女に帰属している財産を、元夫の家族かその親類が不当に奪い、やもめはその返還を求めていたというようなことでしょう。
イエス様の時代のイスラエルでも、女性の社会的地位は非常に低く、「やもめ」となれば、娼婦として自分を売るか、女奴隷として自分を売るか以外、ほとんど生き残る術がありませんでした。
しかし、「相手を裁いて、私を守ってください」、「私の権利を奪おうとしている敵対者から、私の権利を守ってください」とやもめが訴えかけている裁判官は、裁判官ガチャ大外れとしか言いようのない、最悪の裁判官です。
この裁判官はユダヤ人ではなく、ローマ帝国の役人です。「神を畏れず」という言葉からは、このローマの役人は、「神の前で何が正しいか」とか、「神に喜ばれることは何か」といった話には、まったく関心がないことがわかります。
さらに悪いことに、この裁判官は「人を人とも思わない」男です。元のギリシア語は「人に敬意を払わない」という意味の言葉で、彼は「人のことなど、どうでもいい」と思っています。ですから、この裁判官には、信仰に訴える言葉も、倫理や道徳に訴える言葉も、まったく響かないということです。
ところが「とりつく島もない」この裁判官が、やもめの権利を回復する判決を下します。それは、彼が正しいことをしようとたからではありません。やもめが毎日のようにやって来て、「相手を裁いて、私を守ってください」と言い続けることに辟易としていたからです。
やもめの敵対者が喜ぶような判決を出せば、やもめは裁判官のことを引き続き追いかけ回すでしょう。不正な裁判官にとっては、「うっとうしい奴が来ないように」するためにできることは、やもめに有利な判決を下すことだけです。
そして、そのためだけに、不正な裁判官は、やもめの権利回復を命じる判決を出す、そうイエス様の例え話は語っているのです。
元々のイエス様の例え話は、2節から5節の部分で、本来、ここで終わっています。しかしルカ福音書の著者は、この例え話を終末論に結びつけて、「選ばれた人たち」に祈り続けることを勧める話としています。
「選ばれた人たち」というのは、直接的には、ルカ福音書の著者自身が所属している会衆、教会のことです。ルカ福音書の著者は、不正な裁判官を追い回して、自分のために権利回復を命じる判決を引き出すやもめと、自分が所属している教会を重ねて、希望を失わずに祈り続けるようにと勧めています。
では、ルカ福音書の著者が所属していた共同体が抱いていた「希望」とは何でしょうか?彼らは何を求めて祈っていたのでしょうか?彼らが抱いていた最大の希望は「終わりの時の報復」 ‘revenge’ です。そして彼らは、報復の時の速やかな到来を求めて祈っていたのです。
ルカ福音書の教会は迫害に直面する教会でした。教会のメンバーの中には、家を追われる者、財産を没収される者、時には命を失う者までありました。
しかしキリストの弟子たちの群れは、キリストが再び帰って来るときには、神ご自身が、自分たちを迫害し家や財産を奪った連中に対して報復してくださる、そう信じて、自らの手で報復することを諦めました。
しかし、「すぐに来る」と思っていた復活のキリストは10年待っても、20年待っても、半世紀待っても帰って来ませんでした。ルカは「イエス様がすぐに帰って来て ‘revenge’ が達成される」という期待に修正を加える必要がありました。彼は、イエス様の帰りは「若干」延期されてはいるものの、迫害者たちに対する報復は必ず実現される、そう信じて祈り続けるようにと弟子たちの群れを励まします。
報復してくださるのは、自分のことしか考えない不正な裁判官ではなく、約束を必ず守られる神ご自身なのだ。だから、裁きの時を待ち望みながら祈り続けるように。信仰を捨てないように。そう今朝の物語は励ましているのです。
しかし残念ながら、ルカ福音書による「報復への期待」の修正は不十分だったと言わざるを得ません。イエス・キリストの帰りは、ルカ福音書の修正を遥かに超えて延期され続けることになりました。
さらに、社会的に最も弱い存在であるやもめと同一視された教会は、4世紀以降になると、迫害者となり、やもめの権利を奪う者となりました。
教会は、王なるキリストをローマの皇帝と重ね、キリストの栄光を皇帝の栄光と重ね、キリストが再び来られるときに神がなされる「報復」の期待が、ローマ皇帝によって実現されると考えるようになりました。
その行き着いた先のおぞましさを、今、私たちは目撃しています。プーチン大統領が新たに30万人を徴兵すると発表した直後、モスクワ総主教キュリルは、戦場に送られる男たちをこう「激励」しましました。
「行って、勇敢に兵役を果たしなさい。こう心にとめなさい。もしあなたが国のために命を捨てるなら、あなたは神の国で神と共にいることになります。(そこで)栄光と永遠の命を(受けるのです)。」
「恐れによって、兵士は戦場から逃げ出します。恐れは弱い者に裏切りの罪を犯させ、兄弟を兄弟に対立させます。しかし、本当の信仰は死の恐れを打ち砕きます。」
民間施設への無差別な攻撃、ロシアによる占領を拒否する者たちへの拷問、さらには核兵器の使用すら辞さないプーチンの戦争に「霊的大義」を与えているのは、やもめを蹂躙し、やもめをレイプし、やもめの権利を侵害する教会なのです。
東方教会であれ西方教会であれ、私たちが引き継いだ教会をやもめと重ねることは、もはやできないでしょう。
キリスト教の信仰にとって「神の裁き」も「神の正義」も重要です。しかし教会も、この世の正義を、報復としての裁きや報復に基づく正義を、「神の裁き」や「神の正義」の中に読み込んできました。その結果、教会は、世界を核戦争の脅威に晒すような教会となってしまいました。
私たちは、やもめであることを止めて、やもめを蹂躙し、レイプし、やもめの権利を侵害する教会となった。私たちは、その現実と向き合い、悔い改めるところから始めなくてはならないのではないでしょうか。
願わくは私たちの主イエス・キリストが、聖霊の導きによって私たちの「期待」を、「神の裁き」と「神の正義」に対する理解を修正してくださいますように。
そして聖マーガレット教会を、やもめに寄り添い、やもめと共に生きる教会としてくださいますように。