
10月26日(水)中高礼拝 説教 ルカ 18:9-14
今朝のイエス様のたとえ話には、二人の人物が登場します。
一人はファリサイ派の男です。それは、100人中100人が、「正しい人」「優等生」「模範的人間」とみなす人物です。そして、この優等生の正しい人こそ、神様の恵みと祝福を受けるに相応しい。人々はそう信じて疑いません。
さらにファリサイ派の男自身も、自分は正しく、模範的な生活をしているという自信があります。神の掟に従って正しく歩んでいるから、神様は自分に恵みを与えて、祝福してくれている。彼はそう思っています。
もう一人の登場人物である徴税人は、100人中100人が「こいつは悪人だ」とみなす人物です。徴税人は「奪い取る者」「不正な者」「姦淫する者」であり、断食もせず、神への献げものも怠る「悪人」であり、神の怒りによって滅ぼされるような人間だ。誰もがそう思っている存在です。
ところがイエス様は、人々に向かって驚くべき宣言をします。
「義」とされて家に帰ったのは、誰もが正しくて祝福を受けるにふさわしいと思っているファリサイ派の男ではなくて、誰もが極悪人で神の怒りに触れて滅ぼされるべき存在だと思っている徴税人の方だ。そう言うのです。「義」とされるというのは、神様に受け入れてもらえる、神様に愛してもらえるということです。
イエス様はここで、「神様は悪を行う人間を喜ぶ」と言っているのではありません。むしろ、二つの大切なことを私たちに教えています。
一つは、神様の恵みと祝福は、無償で与えられる賜物、ギフトだということです。神様の恵みと祝福は、私たちが成し遂げた何かの対価でも無ければ、私たちの働きに対する報酬でもありません。
同じことを反対から言えば、どれほど偉大な功績も、業績も、人々からの賞賛も、神の前では無きに等しいということです。
自分の業績や功績や生き方によって、神様の恵みと祝福を受けられると思うことは、父親の誕生日プレゼントを買うために、父親にお小遣いをねだって、そのお小遣いで買ったものを父親の誕生日に渡して、「僕があげた誕生日プレゼントを、お父さんがすごくよろこんでくれたんだ」と自慢するようなものです。
この物語を通してイエス様が教えようとしている、もう一つのことは、「自分は人よりも優れているから、恵みと祝福を受けられるんだ」と考える者は、神様の前で最も大切なもの、謙遜さを失うということです。
そして、謙遜さを無くした人間は、巨大な悪に手を染めます。「人より優れたことをしているから恵みを受けた」と考えた瞬間から、人は「恵みの独占」を正当化し始めます。
豪邸に住み、別荘を持ち、高級車に乗って、好きな時に好きなものを好きなだけ食べられる人々が、貧しく困窮する人たちに向かって、こう言います。
「あいつらは頑張ってないから貧乏なんだ。まじめに働いてないから、食べるにも困るんだ。」
この論理の先に、略奪と奴隷化があります。「より高い基準に従って生きている」、そう思うようになった人間たちは、「道徳的に劣っている」とみなす人々に対して残虐非道なことをし、非人間的な扱いをすることが許されると思うようになるのです。
アメリカ大陸でも、アフリカ大陸でも、先住民たちはヨーロッパからやって来た侵略者たちによって、土地を奪われ、身体を奪われて奴隷とされ、言語も文化も奪われました。
同じことが蝦夷の地でも起きます。倭人はアイヌから土地を奪い、彼らを奴隷化し、略奪に略奪を重ね、言語も文化も破壊しました。
大きな恵みを受けている皆さん、謙遜さを忘れないでください。
皆さんが受けている恵みは、神様から与えられた無償の贈り物であって、皆さんが勝ち取ったものではありません。
それは独り占めするためではなく、感謝をもって人々と分かち合うために与えられたものであることを覚えていてください。