聖霊降臨後第21主日 説教

2022年10月30日(日)聖霊降臨後第21(特定26)主日

イザヤ 1:10-20;IIテサロニケ 1:1-5, 11-12;ルカ 19:1-10

昨日と一昨日、28日の金曜日と29日の土曜日に、女学院では3年ぶりに文化祭、マーガレット祭が行われました。昨日の土曜日には、Oさんが今年から指導に当たっている聖歌隊のチャペルコンサートがあったので、私も学校に行ってきました。

ちょうどチャペルに入るところで、新院長になられた主教さんとバッタリ会って、聖歌隊の歌声に耳を傾けた後、一緒に高校校舎2階のGFSや宗教委員の展示を見て、1階に降りて来ました。

1階の教室では、在校生による受験相談のコーナーがあって、何人かの生徒が「受験相談やってま~す」と声をかけていました。

ところが、私には「受験相談」が「人生相談」に聞こえて「えっ、人生相談やってんの?」と、生徒にトンチンカンな質問をしてしまいました。すると、それを聞いた主教さんが、「人生相談?ボクもお願いしたい。転職相談してくれないかな」とおっっしゃって、大笑いしました。

しかし、ひとしきり笑った後に、主教になられてから、すでに7本の歯を失ったという話を思い出して、転職相談をしたいという話もあながち冗談ではないのかもしれないと思いました。皆さん、どうか主教さんのために祈ってください。

さて、今日の福音書朗読の物語の主人公、ザアカイは特別な徴税人です。

「徴税人」 (τελώνης) という言葉は福音書の中に全部で22回登場します。マタイ福音書に9回、マルコに3回、そして、ルカ福音書が最多で10回登場します。興味深いことに、ヨハネ福音書には「徴税人」は一度も出て来ません。

徴税人は共観福音書の中に度々登場しますが、名前が知られている徴税人はたったの3人しかいません。1人はマルコ福音書の5章とルカ福音書の5章に登場するレビです。

このレビは、マタイ福音書9章ではマタイという名前で登場して、10章の十二使徒のリストの中にも出て来ます。つまり、レビとマタイは同一人物である可能性も大いにあって、もしこの2人が同一人物だったとすると、名前が知られている徴税人はたった2人しかいないということになります。

その一人が今日の主人公のザアカイなのですが、ザアカイは、ただの徴税人ではありません。

協会共同訳では「徴税人の頭」と訳されていますが、元のギリシア語は ‘ἀρχιτελώνης’ という言葉です。直訳すると「大徴税人」となりますが、この言葉は、新約聖書全体の中でたった1回しか、ルカ福音書19章2節にしか出て来ません。

イエス様の時代のイスラエル社会では、「徴税人」というのは罪人の中の罪人であり、悪人の代名詞であり、もっとも嫌悪される存在です。徴税人が嫌われる理由として挙げられるのは、主に二つです。

まず、徴税人は民衆の敵でした。徴税人は、徴税事業を委託された事業所に雇われて税金を集めますが、徴収額を恣意的に決めることができました。お上に納める金額に、自分のポケットマネー分を上乗せして徴収して、文字通り市民を搾取することで、自分の懐を温めるのが徴税人でした。

徴税人が憎まれる第2の理由は、彼らがローマ帝国の手先として働いていたことです。特に、この第2の理由は、福音書の中に出てくる、他のどの徴税人にも増して、ザアカイにこそ当てはまったはずです。

ローマ帝国は、徴税権をリースして、集金を徴税事業者に任せていました。大徴税人のザアカイは、ローマ当局から徴税権を買い取って徴税事業を行う事業主だったのです。大徴税人ザアカイの下に、実際に税金の徴収にあたる徴税人が何十人といたはずです。悪徳事業のトップに君臨して、不正な利益を貪るザアカイが、嫌われないはずがありません。

恐らくザアカイは、イスラエル社会の指導者からも、民衆からも、更には手下の徴税人からも恨まれ、憎まれる存在だったことでしょう。言ってみれば、「徴税人の頭」になるということは、すべての人から憎まれ、嫌われ、友だちもいない孤独な生活と引き換えに、富を手に入れるということです。

大徴税人のザアカイは、人から憎まれ、嫌われ、孤独になるとわかっていて、金持ちになる道を選び、そして成功者になったはずです。

徴税事業に成功し、自分の望むものを何でも手に入れることができるほど金持ちになったザアカイに、物質的な意味で足らないものは何一つありませんでした。

しかも彼は、病気を癒してもらうために、あるいは悪霊を追い出してもらうためにイエス様のもとに押し寄せた群衆とも違います。

大の大人が木によじ登り、大きな枝にしがみついてイエス様が通るのを待ち構えている姿は、お世辞にも格好いいとは言えません。しかし、難なく木に登ることができたザアカイに、健康上の問題はまったくありませんでした。

とするとザアカイは、経済的には超富裕層で、物質的には何不自由なく、健康にも恵まれていて、「生活に困る」ことは一切無かったはずです。

けれども、ザアカイはイエス様に会いたいと思っていました。残念ながら、この点は日本語訳からは読み取ることができませんが、ザアカイは、たまたまイエス様が通りかかるという噂を聞いたから、野次馬根性でイエス様という有名人の姿を見てみたいと思ったのではありません。

ギリシア語の本文からは、ザアカイがずっと、イエス様に会いたいと思っていたことが読み取れます。

彼は、イエス様の周りに、自分と同業の徴税人ばかりか、娼婦やその他の悪名高い人々が集まっているという噂を聞いていたはずです。だからこそ、ザアカイはずっと、イエス様に会って、イエス様が何者なのかを知りたいと思っていたのです。

人生相談を受けたい、転職相談をしたいと言った昨日の主教さんではないですが、ザアカイの心の奥底にも、自分の人生について相談したい何かが、イエス様に会ったら何かが変わるかもしれないという期待がありました。

ザアカイの心の深みにあった「変わりたい」、「変えられたい」という願いは、他の誰にも見えてはいませんでした。

不正によって莫大な富を築いた男のもとにイエス様が身を寄せ、食卓を囲み、大徴税人の友となったことに、人々は腹を立てました。

しかしイエス様は、誰が見ても「変わりようがない」、「どうにもならない」と思われているザアカイの中にも、「救い」を見ました。

きっと私たち一人ひとりの中にも、小さなザアカイがいるはずです。誰の中にも、「変わりたい」、「変えられたい」という小さな願いがあるはずです。そして、その小さな変身願望を胸に、イエス様の姿を一目見ようと一歩踏み出す時、そこにイエス様が来られます。

あまりに劇的に見えるザアカイの変身ぶりに圧倒されて、「自分には到底そんな変化は起こらない。結局、自分は変われやしない」、そう思うかもしれません。しかし、恐らく、ザアカイの変化は、私たちが思うほど劇的でも、急激でもなかったでしょう。

実際、ザアカイは、 ‘ἀρχιτελώνης’ 、「大徴税人」の仕事を辞めた訳ではありません。彼は、「この仕事からキッパリ足を洗います」とは言っていません。ザアカイは、相変わらず、人から憎まれる仕事を、イエス様と会った後も続けていたはずです。けれども、彼の中で、何かが変わり始めました。

ザアカイが「大徴税人」であり続けたように、私たちがイエス・キリストに出会ったからと言って、完全無欠な人間になることなどありません。

けれども、イエス様は、私たちの中で小さな変化を起こし、その変化を喜んでくださいます。そして、その小さな変化の積み重ねが、この世に神の国の平和と喜びと豊かさを示す、大きな変化になるのです。

私たちの一人ひとりの中に小さなザアカイがいるなら、変わりたい、変えられたいという小さな願いがあるなら、イエス様はそこに来てくださいます。そして、イエス様が私たちのうちに住まわれ、小さな変化を生み出し続けてくださいます。

 私たち一人ひとりの中で、小さな小さな変化が積み重なり、聖マーガレット教会が神の国の恵みと祝福と豊かさを示すコミュニティーとして、大きく成長しますように。