
11月9日(水)中高礼拝 説教 ルカ20:27, 34-28
私の母方の祖父は、1912年、明治の最後の年に生まれの人ですが、80代半ばに一旦死んで、生き返ったことがあります。
私の祖父母は、東京都の稲城市というところに住んでいて、市から畑を借りて、趣味で家庭菜園をやっていました。
祖父はある日、いつものように畑に自転車で出かけて、畑仕事をしていましたが、その間に倒れてしまいました。
たまたま通りかかった人が、祖父が倒れているのを見て救急車を呼んでくれました。そして祖父は、近くの稲城市立病院に運ばれました。しかし、病院に運び込まれた時点で、祖父は心肺停止状態でした。
持っていた財布に入っていたものから身元がわかって、病院から家にいた祖母のもとに電話が入りました。
「正義さんが畑で倒れられて、病院に救急車で運び込まれたのですが、残念ながらお亡くなりになりました。正義さん本人であるか確認するために、病院に来てください」と。
祖母は電話を切って、すぐにタクシーで病院に向かいました。病院に着くと、祖父が安置されている部屋に通されて、改めて「ご本人かどうか確認してください」と言われました。
顔の上には白い布がかけられていましたが、それを取ってみると、そこに祖父が横たわっていました。
祖母が、お医者さんと看護師さんたちに向かって、「主人です」と伝えたその瞬間、祖父は寝かされていた台の上でガバッと起き上がって、「ここはどこだ?」と叫びました。
その光景を目撃したお医者さんと看護師さんは、それこそ心臓が止まるほど驚いたそうです。
結局、祖父がなぜ倒れたのか、そして、一体いつ息を吹き返したのかもわからずじまいでしたが、祖父はその後すぐに退院して、もとのの生活に戻りました。
とは言っても、一度は生き返った祖父も、それから4, 5年後に再び亡くなり、そのときにはもう、再び起き上がることはありませんでした。
今日の聖書朗読に出てきた、サドカイ派と呼ばれる人々は、神を信じる人々ですが、死んだら命はそれで終わると思っていました。それに対して、ファリサイ派と呼ばれる人たちは、復活があると信じていました。
イエス様自身も復活があると思ってはいましたが、自分が復活するとは思っていませんでした。イエス様も、イエス様の弟子たちも、そしてファリサイ派の人たちも、復活は最後の審判の時に、この世界が終わる時に起こることだと思っていました。
ですから、イエス様が十字架にかけられて死んでしまったとき、イエス様自身も、弟子たちも、イエス様を知っている者の誰一人として、金曜日に死んだイエス様が日曜日に復活するなどとは考えていませんでした。
ところが、復活のキリストが弟子たちの前に現れてしまったので、教会が生まれ、イエス・キリストへの信仰が生まれました。
皆さんは、自分にとっては、イエス・キリストが復活していようが、していまいが、全く関係ないと思うかもしれません。
けれども、イエス様が復活していなかったら、皆さんが学んでいるこの学校は無かったのです。そういう意味では、皆さんはすでに、イエス・キリストの復活と繋がって生きているのです。
というわけで、ぜひ、たまには復活の神秘に目を向けてみてください。