降臨節前主日 説教

2022年11月20(日)

エレミヤ書 23:1-6; コロサイ1:11-20; ルカ 23:35-43

早いもので、今日は今年最後の日曜日となりました。もちろん、今年最後というのは、教会の暦の上での話です。教会暦では、来週の日曜日、降臨節第1主日から新年が始まります。

昨日、教区会からの帰り道で、お店の中に早々とクリスマス・ツリーか飾られているのを目撃しました。でも、正式なクリスマスシーズンは来週の日曜日からです。

これまで何度かお話ししたことがありますが、この降臨節前主日の主題は、20世紀の半ばに劇的な変化を遂げました。1950年年以降、大体80年代まで、世界的に典礼刷新の運動が展開され、教会歴の見直しが行われました。

A年、B年、C年という3年周期の聖餐式聖書日課も、大斎節から始まる長い長いイースターシーズンも、Common Lectionaryという超教派の聖書日課もここから生まれました。

そして、典礼刷新の運動の結果として、教会の暦の最後の日曜日のテーマも、大きな変貌を遂げました。伝統的には、降臨節前主日は、 ‘Stir-up Sunday’(奮起の日曜日) と呼ばれていました。

「主よ、善き業の実を豊かに結び、あなたから豊かな報いを受けるために、 あなたを信じる者たちの意志を奮い立たせてください、私たちの主イエス・キリストによって、アーメン。」

これが「奮起の日曜日」の特祷で、福音書朗読としては、ヨハネ福音書の6章5節から14節にある、5千人の給食の箇所が読まれていました。イエス様はその中で、一人の少年が献げた5つの大麦パンと2匹の魚をもって、約5千人の男たちと、さらに女性たちと子どもたちを養いました。

特祷は、私たち一人一人が献げる「善き業の豊かな実り」は、取るに足らない小さなものかもしれないけれども、主が再び来られる時には、「神の国の祝宴」の大きな報いとして返ってくるという終末論的期待をもって、1年最後の主日を締めくくっています。

しかし1925年に時の教皇ピオ11世が作って、10月最後の日曜日に置かれた「王なるキリストの祝日」が、1970年に降臨節前主日に移されました。

これにならう形で、1990年には「王なるキリスト」のテーマはChurch of Englandの教会歴にも毎年登場するようになり、2000年の9月に出版されたCommon Worshipをもって、ほぼ公式な位置付けが与えられました。

私たちが現在用いている日本聖公会の聖書日課には、直接には「王なるキリスト」という言葉も、「キリストの支配」という言葉も出てきません。しかし特祷にはこうあります。

「あなたのみ旨は、王の王、主の主であるみ子にあって、あらゆるものを回復されることにあります。どうかこの世の人びとが、み恵みにより、み子の最も慈しみ深い支配のもとで、解放され、また、ともに集められますように。」

日本聖公会の聖書日課も、「王なるキリスト」、「キリストの支配」のテーマになっていることがよくわかります。

「王なるキリスト」が、教会暦の最後を飾るにふさわしいテーマかどうかはわかりません。しかし、核戦争と第三次世界大戦の瀬戸際にある「今の私たち」にとって、このテーマと向き合うことは、タイムリーであり、非常に重要なことだと思います。

イエス様の時代の「メシア待望」は、戦争と切り離すことができません。なぜなら、人々が期待しているメシアは、ローマ帝国の支配からイスラエルを解放する、卓越した軍事指導者としての王だからです。

今のウクライナ人たちの状況と重ねれば、イスラエルの民のメシアへの期待がどのようなものであったか、容易に理解できます。

ウクライナには毎日のように、国境を超えてロシアからのミサイルが打ち込まれ、発電所、水道、ガスパイプラインなど、生活を支えるインフラが攻撃されています。ロシアは文字通り、ウクライナの民間人の生活を破壊し尽くそうとしています。

イエス様の時代のユダヤ人民衆の心情は、現在のウクライナの人々の感情に近いものがあります。抑圧されているユダヤ人民衆は、自分たちの上に君臨し、税金を取り立て、生活を圧迫するローマ帝国とその軍隊に対して、ウクライナの市民がロシアとロシア軍に対して抱いているのと同じ憎しみを抱いています。

ウクライナの人々が待ち望む救世主は、プーチンを抹殺し、ロシア軍をマリウポリから、ドンバスから、クリミア半島から駆逐してくれる軍事指導者です。

ユダヤ人が待ち望むメシアも、それと同じでした。ユダヤ人が待っていたのは「罪からの救い主」ではありません。死んだ後に天国に入れてくれる神秘的な存在でもありません。

この世にあって、軍事力をもって、敵を殲滅し、自分たちを憎きローマ皇帝から、ローマ軍から解放してくれる、ダビデのような、有能な軍事指導者としての王。それこそ、ユダヤ人の待ち望むメシアでした。

しかし教会が救い主であり、王である方として崇めるイエス・キリストの栄光は、十字架の栄光です。そして、キリスト教とは、十字架にかけられた王についての物語です。

それは最初、誰にとっても、「喜びの知らせ」としては現れません。それは不可解な話であり、怪訝な、眉をひそめるような話です。十字架にかけられた王が、救い主として現れ、十字架にかけられた王についての物語が「良き知らせ」となるまでには、時間がかかります。「忍耐」が必要です。

私はもともと体育会系の人間で、中学生の頃はプロ・ボクサーとして食っていこうと思っていました。極めて戦闘的で、平和的とは正反対の人間です。実は今でも、ほぼ毎週日曜日に、総合格闘技の試合を見てストレスを発散します。私がクリスチャンなのは、自分が平和的な人間じゃないことを知っているからだ、と言っても言い過ぎではないかもしれません。

メシアを待ち望んでいた多くのユダヤ人と同じように、プーチンの破滅を待ち望むウクライナ人のように、私の中には、敵を滅ぼすメシアを求める思いがあります。

戦いが始まり、自分が心にかけている人々の平和な生活が奪われ、傷つき、命を奪われるような事態になれば、暴力をもって敵を滅ぼしてくれるようなメシアへの期待は一気に高まります。

私たちは今、世界がメシアを、有能な軍事指導者としてのメシアを待望する、とてつもなく危険な「時代」を生きています。

私たちに、聖マーガレット教会に与えられている最大のチャレンジは、使命は、世界が武力を求める中で、武力を放棄して生き、平和を作る道を見出すことです。

忍耐をもって、十字架につけられた王から学び、この王についての物語が、なぜ「良き知らせ」であるのかを学ばなければ、この使命を果たすことはできません。

暴力に世界が深く傷つくこの時、十字架につけられた王に向き合う忍耐を、主が私たちに与えてくださいますように。

そして私たちが、十字架につけられた王の物語の中に、平和と喜びを見出すことができますように。