降臨節第1主日 説教

11月27日(日)降臨節第1主日

イザヤ 2:1-5; ローマ 13:8-14; マタイ 24:37-44

教会のカレンダーでは、世間よりも一足早く、この日曜日をもって新しい年を迎えました。

日曜日から始まる7日間を1週間とし、1年を52週として、4年に1度うるう年を加えて調整をするカレンダーはグレゴリオ暦と呼ばれます。1582年に、時の教皇、グレゴリウス8世によって導入されたので、この名で呼ばれるようになりました。

日本という国は1889年(明治22年)の大日本帝国憲法発布によって生まれましたが、グレゴリオ暦はそれに先立って、1872年から使われるようになりました。このグレゴリオ暦で一週間の最初の日、つまり日曜日が休日となっているのは、これがキリスト教のカレンダーだからです。

世間の新年は、毎年、1月1日から始まりますが、実は教会の暦の新年は、世間よりも1ヶ月以上前に始まります教会は、グレゴリオ暦という暦に基づいて、典礼暦とか教会暦と呼ばれる暦を運用しています。これは教会の礼拝のリズムに基づいたカレンダーです。

この教会のカレンダーでは、12月25日、クリスマスの直前の日曜日から数えて4つ前の日曜日から、新年が始まります。つまり元日の日付は毎年変動するのです。今年は12月25日がちょうどクリスマスに当たっているので、その4つ手前の日曜日は今日、11月27日です。

この日から正式なクリスマス・シーズンが始まり、1月6日の「顕現日」(Epiphany)をもってクリスマス・シーズンが閉じるようになっています。

今日、この日曜日からクリスマス・イヴまでの期間は、英語で ‘Advent’ 、日本語では降臨節とか降誕節と呼ばれます。Adventという英語はラテン語のadventusという言葉から来ています。「到着」とか、「到来」という意味の言葉です。

そして、伝統的に、この Advent の期間は「忍耐して到来を待ち望むとき」とされてきました。では一体何の到来を、あるいは誰の到来を待つのでしょうか?

12月25日のクリスマスは、イエス・キリストがこの世にお生まれになったことをお祝いする日なので、私たちは「イエス・キリストの誕生を待っているんだ!」と言いたくなるかもしれません。けれども、イエス・キリストは約2020年年前に、すでに来られました。すでに到来されました。ですから私たちは、イエス・キリストの誕生を待っているわけではありません。

実は私たちは、イエス・キリストが「再び来られる」のを待っているのです。

先ほど読まれたマタイ24章37節から44節には、こんな言葉が並んでいました。

「人の子が来るのは、ノアの時と同じ」である(37)。「目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が来られるのか、あなたがたには分からないからである」(42)。「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」(44)。

復活のキリストが弟子たちの前に出てきてしまったので、イエス様が救い主であると告白する集団が生まれました。それが教会です。

復活のキリストの出現は2ヶ月も続きませんでしたが、生まれたばかりの教会は、イエス・キリストがすぐに帰ってくる。そう信じていました。イエス様が再び帰ってきて、神の国が完全な形で現れる。神様の救いの業が、いよいよ完成する!そう思っていました。

けれども、イエス・キリストは帰って来ませんでした。教会は、クリスチャンたちは、神様の「救いの業」とその「完成」について誤解をしたのです。教会は、イエス・キリストが再び来られる時、自分たちだけが救われると思っていました。教会のメンバーにならなかった人々はみんな滅ぼされる。そう思っていたのです。

しかし、そうではありませんでした。イエス・キリストの再臨というのは、神様が始められた天地創造の業が完成される時のことを示すシンボルです。それは単なる教会のメンバーの救いではなくて、世界の救いを、世界に生まれ、そこで生き、そして死んでいった、すべての人の救いを表すシンボルなのです。

神様が造られた世界は、まだ完成形に至っていません。世界はまだ、完成への道のりの途上にあります。その完成形がどのようなものになるのか、誰も知りません。

天地創造の業の完成。それは何十万光年も離れた銀河の姿を、望遠鏡で覗くようなものです。私たちは、遠く離れた銀河が存在することを確認することはできますが、そのありのままの姿を見ることはできません。

しかし神様は、イエス・キリストの復活の姿を通して、天地創造の業が完成されたときに何が起こるのか、その一端を私たちに示してくれました。

世界が完成されるとき、死は命に飲み込まれます。世界の物語は、死の勝利によって終わるのではなく、命の勝利に終わります。

そして天地創造の業が完成されるとき、世界の救いが実現したとき、その世界を構成する物質は滅びることがありません。世界が完成に至った時には、物質と非物質という二元論的区別が無意味になると言った方が正しいのかもしれません。

教会は、イエス・キリストが帰ってこなかったおかげで、予想を遥かに超えてこの世界に滞在することになり、ミッションを、使命を帯びることになりました。それは、共同体の生き方を通して、救いの完成形のほんの一端を、完成された世界の片鱗を指し示すという使命です。

この天地創造の業の完成形としての救いを、イエス様は「神の国」と呼び、その到来を告げ知らせました。病の人を癒し、悪しき霊に囚われた人を解放し、そして群衆を養う時、それはいずれ到来する「神の国」の姿を映し出す鏡となっている。イエス様はそう信じていました。

そして、教会は、このイエス様の働きを、Jesus Movementを引き継ぐことになりました。

暴力に傷つき、暗闇に覆われる世界の中で、キリストの光を受けた私たちが、小さな光を輝かせれば、そこには希望が生まれます。そして、小さな希望の光が輝くのを見た人にとって、世界は生きるに値する場所になります。

このAdventのとき、どうか一人ひとりの内にあるキリストの光を、神の国の光を、勇気を出して、人々の前で輝かせてください。

悲しんでいる人がいたら、声をかけてください。その小さな声が、悲しんでいる人の慰めとなります。苦しみの中にある人に、寄り添ってください。それが、その人を立ち上がらせる力になるかもしれません。

世には闇があり、私たち自身の内にも闇があります。しかし、イエス様の光が心にあれば、私たちは闇の中にあっても、絶望せずに、希望の光に照らされて、喜びをもって生きることができるようになります。

この降臨節のとき、主が私たちの忍耐を新たにし、私たち一人一人を、この世の闇を照らす、小さな希望の光としてくださいますように。