






12月4日(日)降臨節第2主日
イザヤ 11:1-10; ローマ 15:4-13; マタイ 3:1-12
伝統的に、アドヴェントは「忍耐を持って到来を待ち望むことを学ぶ時」である。先週の日曜日、降臨節第1主日にも、そうお話をしました。
降臨節第2主日の今日、マタイ3章1節から12節が福音書朗読として選ばれているのは、その背後に、バプテスマのヨハネの役割に関する、確固とした教会の位置付けがあるからです。
すでに1世紀の段階で、教会はバプテスマのヨハネを、救い主であるイエス・キリストの到来に先立って、道を準備するために神から遣わされた預言者であると見做していました。
この解釈に基づいて、イエス・キリストが再び来られるとき、彼を迎えることができるように、準備をして待っていなさいという、伝統的なアドヴェントのテーマが設定されています。
教会の伝統に従って話をするだけでよければ、これで今日の説教は終わりとなります。しかし、聖書のテキストそのものが語っていることに真面目に向き合うと、教会の伝統との間に緊張が生まれます。
1世紀の教会のメンバーたちは、ほとんど普遍的に、バプテスマのヨハネを、イエス様のために道備えをする人と位置付けました。
しかし、バプテスマのヨハネ自身は、ナザレのイエスが来た時のために準備をしておくのが自分の役割だとは思っていませんでした。バプテスマのヨハネの弟子たちも、そうは思っていませんでした。
もしバプテスマのヨハネが、イエス・キリストの到来のために準備をするのが自分の役目だと思っていたなら、彼はイエス様が来た時点で、自分の務めを果たしたことになります。そしてイエス様に後を譲り、「自分は果たすべき役割を果たした。これからはあの人について行きなさい」と言って、表舞台から姿を消したはずです。
しかし、そうはなりませんでした。ヨハネの福音書が書かれた紀元後の100年に近い時にも、バプテスマのヨハネの弟子集団は活動を続けていました。イエス様の神の国運動とバプテスマのヨハネの神の国運動はライバル関係の中で併存していました。
今日の福音書朗読の中で「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3:2)と宣言するバプテスマのヨハネから、イエス様はこの直後の箇所で洗礼を受けます。
「天の国」と「神の国」は同じです。マタイ福音書の著者も、その読者も大部分がユダヤ人なので、「神」という言葉を避けて、代わりに「天」という言葉で神様を表しています。
イエス様が、バプテスマのヨハネが始めた神の国の運動に加わるために洗礼を受けたということは、バプテスマのヨハネの弟子となったということです。ところが、イエス様はあるとき、バプテスマのヨハネと袂を分かち、独自の神の国運動を始めました。
その原因は、バプテスマのヨハネとイエス様の、「神の国」に対する決定的な理解の違いにあったはずです。
バプテスマのヨハネにとって、神の国は「世界の終わり」と共に、最後の審判と共にやってくるべきもので、人はただその到来を待つだけでした。人間の側でするべきことは、それが到来した時に、殻のように焼き払われてしまわぬように、天の国に受け入れられる準備をしておくことです。
しかしイエス様にとっての天の国は、未来と現在の交わるところであり、ただ単に「やって来る」だけのものではありませんでした。イエス様が語る神の国は、彼の呼びかけに応える者たちが「作り上げる」ものでもあるのです。
イエス様にとって神の国は、「すでに到来しつつある」ものでした。それは、今、この世にあって、その姿が、少なくとも部分的には見えるものです。
しかも未来と現在は、双方向で影響を受けます。イエス・キリストが展開した神の国の運動は、この世にはないような、新しい共同体を作ることを目指す運動です。この新しい共同体の創出を目指す運動こそ、アメリカ聖公会の総裁主教 Michael Curry が Jesus Movement と呼ぶものです。
一人一人の人間が、個人的に、直接的に神様と繋がっているか、神様との親しい交わりがあるかどうかというような関心は、イエス様にはありませんでした。
どこでそういう「キリスト教」の理解を身に付けるのかわかりませんが、「他の人との関係にはまったく関心がないけれども、お祈りをして自分が神様と繋がっていることが大切だ」と思っているクリスチャンが、結構おられます。
しかし、そのようなキリスト教とイエス様の間には、ほとんど関係がありません。彼が目指したのは血縁によらない、新しい家族的共同体の創出です。
イエス様がもっとも大切にしたもの。それは「慈しみ」です。「憐れみの心」です。
憐れみの心は、神様に対して働くものではありません。それは、自分に対して働く自己憐憫でもありません。「慈しみ」は人に向かって、苦しむ人、悲しむ人、泣いている人、抑圧されている人に対して働く、共通感覚です。
イエス様は、慈しみと憐れみの心に動かされて、メンバーの一人一人が、自分に与えられた恵みを分かち合い、仕え合い、互いに愛し合うとき、そこに神の国が現れると教えられました。
ここにこそ、私たちに、教会に与えられている、神の国を世に示すという使命の、もっとも重要なポイントがあります。
教会は、外側から教会を見る人たちに、「神様が天地創造の業の完成形として目指しているのは、こういう世界なんだ」と示すような共同体になるようにと、イエス様から言われているのです。
これは、サンタさんが来て、自分の欲しいものをくれる時というクリスマスの理解と正反対のものです。「私を大切にしてほしい」、「私の関心に応えて欲しい」という言葉が教会で語られるとき、イエス・キリストが私たちに求める生き方は忘られれているのです。
イエス・キリストが私たちに求めるのは、ただ待つことではありません。教会にミッションが、「使命」が与えられているのは、バプテスマのヨハネの天の国と、イエス様の天の国の違いの故です。
主が教会に求めているのは、闇の中に捨てられ、絶望する人々に、憐れみ深く、慈しみ深い神の姿を映し出すような共同体になることです。
そして驚くべきことに、教会が、イエス・キリストの弟子たちが、神の国を示すためにこの世で「作り上げる」共同体は、未来の神の国の完成形を構成する材料となるのです。
今年のクリスマス・シーズンが、この聖マーガレット教会を通して、一人でも多くの人々が、希望の光を見出すときとなりますように。