降臨節第3主日 説教

12月11日(日)降臨節第3主日

イザヤ書 35:1-10; ヤコブ 5:7-10; マタイ 11:2-11

先週に引き続き、今週の福音書朗読でも、話題の中心はバプテスマのヨハネです。

福音書の中にバプテスマのヨハネが出てきたら、それは1世紀のナザレのイエスの弟子集団と、バプテスマのヨハネの弟子集団のライバル関係を映し出していると思ってください。

福音書の著者がバプテスマのヨハネを登場させる時、それは決まって護教論、apologeticsです。

福音書にバプテスマのヨハネを登場させるのは、バプテスマのヨハネよりもナザレのイエスの方が偉大だと言うためです。救い主はイエス様であって、バプテスマのヨハネではないと言うためです。そして、バプテスマのヨハネの弟子たちに対して、自分たち、イエス・キリストの弟子集団の方が正しいし、優れているんだと言うためです。

「11 およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」

この言葉には、バプテスマのヨハネの神の国よりも、ナザレのイエスが告げ知らせた神の国が圧倒的に偉大だという教会の主張がよく表れています。

「3 来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」

これはバプテスマのヨハネ自身が言った言葉ではなくて、バプテスマのヨハネの弟子集団とライバル関係にある教会が、バプテスマのヨハネに言わせている言葉です。

けれども、バプテスマのヨハネの弟子集団とナザレのイエスの弟子集団とのライバル関係は、無から生じた訳ではありません。二つの弟子集団のライバル関係は、二人の英雄に、二人のマスターにまで遡ります。

入信儀礼としての洗礼も、神の国の到来の宣言も、バプテスマのヨハネから始まりました。イエス様の神の国運動は後発ですし、教会の入信儀礼としての洗礼は、バプテスマのヨハネの真似じゃないかと言われれば、「その通りです」と言うしかありません。

けれども、何についてであれ、オリジナルが、あるいは古いものが、後発のもの、あるいは新しいものよりも正しいわけでも、より優れているわけでもありません。

ニュートンが近代物理学の創始者であることを疑う人はいませんが、アイシュタインの一般相対性理論よりもニュートン力学と重力理論の方が優れているという人もいません。

先週もお話ししたように、イエス様はバプテスマのヨハネから洗礼を受け、彼の神の国の運動に加わりました。しかし、どこかの時点で、イエス様はバプテスマのヨハネと訣別します。

バプテスマのヨハネの神の国は、悪人どもが神の偉大な力によって滅ぼし尽くされることによって完成するものです。

それに対して、イエス様の神の国は、悪人にも雨を降らせ、恵みを施す神が、すべての人を祝宴の席に招いて養ってくださると共に、そこに招かれた人々が皆、食卓に仕える者となることによって完成するものです。

バプテスマのヨハネの神の国のイメージと、イエス様の神の国のイメージの間には、橋渡し不可能な断絶があります。

「6 私につまずかない人は幸いである。」この言葉は、イエス様の語る神の国が、ほとんどすべての人たちにとって「躓き」であったということをよく表しています。

バプテスマのヨハネの弟子たちも、ユダヤ人社会の指導者たちも、そしてイエス様の弟子たちを含むメシアの到来を待ち望んでいたすべての人たちも、イエス様の神の国に躓きました。躓きの最大の原因は、悪人も善人も神の国に入ってしまうことです。

バプテスマのヨハネも、ユダヤ人指導者たちも、メシアの到来を待ち望んでいるすべての人たちも、自分たちは正しく、神の側にいることを疑いませんでした。同じように、敵は悪であり、悪魔の側にいることを確信していました。

しかしイエス様にとっては、「正しさ」を追求する人の正しさは、どんぐりの背比べにすぎません。それどころかイエス様は、正しさを追求する人たちの正しさを「悪」とみなしていました。なぜなら、正しさを追求する人たちの正しさには、ほとんど常に、暴力性が伴うからです。

イエス様の洞察の正しさは、教会が歴史の中で行ってきた数々の残虐行為を通しても明らかです。

私たちはいつの時代にも、神様のことや、神様が作られた世界とその救いのことについて、それぞれの時代の知的限界の中で理解し、言語化するしかありません。キリスト教の教義も神学も、それぞれに時代の知的限界を超えて普遍性を獲得することはできません。

しかし限界を無視して、無理に「絶対的正しさ」を主張し始める時に、巨大な暴力性が発動します。理性的な議論によって自分の「正しさ」を認めさせることができないときに、その「正しさ」を認めさせる手段は威圧、脅迫、そして暴力しか残っていません。そして「正統信仰」の「普遍化」の大部分は、軍事力によって実現されました。

ロシア正教会とプーチン大統領の軍隊の結びつきに、多くの人は驚いたようですが、それは教会の歴史の中で繰り返されてきたことです。

私たちは「正しさ」を主張することに、慎重であるべきです。むしろ私たちは、「自分も闇の中にいる」という事実を、知恵として身につけるべきです。

「闇の中にいるという事実を知恵として身につける」というのは、妙な表現だと思う方もあるでしょう。しかし、闇のやっかいなところは、闇そのものは、「私」に直接現れることはないというところです。

私たちは、自分の中にある闇に、そんなに簡単には気づきません。闇の深さに気づくのは、むしろ光に足元を照らされて歩み始めるときです。

イエス・キリストの光が私たち自身の闇の中に灯る時、私たちは喜びと慰めを感じます。しかし同時に、今までに見えなかった「闇」を見るようになります。

そして、今までには見えなかったのに、イエス・キリストの光によって見えるようになった「闇」こそ、教会に使命を与えるのです。教会がJesus Movementでなくてはならないのは、この世に、私たちの内に、光によって照らされるべき闇があるからです。

学校の勉強についていけない子どもたちが置かれている闇があります。

毎日、夫や妻からのDVに苦しめられている人たちが置かれている闇があります。

月に4万円の年金しか収入のない高齢者が置かれている闇があります。

ADHDの子どもを、一体どんな学校で学ばせれば良いのかわからない闇があります。

重い障害をもった子どもたちの将来につきまとう闇があります。

どんなに働いても生活保護以下の収入しか得られず、どのように生きていけばいいのかわからない闇があります。

イランやアフガニスタンをはじめとする、イスラム諸国における女性の抑圧という闇があります。

しかし、イエス様に躓かない者は幸いです。

願わくは、暗闇の中に光をもたらすことが、私たち一人ひとりの使命となり、喜びとなりますように。そして私たち聖マーガレット教会が、イエス様に躓かない共同体として成長することができますように。