








降臨節第4主日 2022.12.18 マタイ 1:18-25
+父と子と聖霊のみ名によって アーメン
ご降誕を目前にした最後の主日の福音書は、「イエス・キリストの誕生の次第は、次のようであった」という書き出しで始まっていますが、コンパクトにまとめますと、聖霊によってマリアが身籠もった、そして、いざ幼子が生まれた時にイエスと名付けた、書かれているのはそれだけです。
むしろ、その文章が費やしているのは、父親となるべきヨセフのことであり、いかにヨセフが一人孤独の内に苦しみ、そのヨセフに、どのように神様は語りかけられたか、つまり、自分の婚約者が知らない内に子どもを宿すことになってしまったことを巡っての不安と戸惑い、苦悩と動揺の中に投げ込まれたヨセフに向かっての神様の御言が軸となり、ポイントになって話が進められています。
ヨセフは、既にマリアと婚約していましたが、それは当時としては結婚しているのとほぼ同じ重みをなしていました。それだけに、自分が知らない内にマリアが子どもを宿しているともなれば、マリアは明らかに姦通とみなされ、石打ちの刑は免れようが無い状態にあったと言えます。
そのような中に置かれているヨセフは、正しい人だけに、人一倍悩み、苦しみます。ちなみに、ここで聖書が言っている「正しい人」とは道徳的で、清らかな生き方をしている人というだけではなしに、心底神様を信じ、その神様に対して望ましくあるような生き方をしている、いかに神様の意に心に自分を添わせられるか、ということです。
であればこそ、マリアの身の上に起こった事は、どう考えても神様の意にかなう事柄ではないし、もちろん、律法にも悖る(もとる)出来事でもあるとしか思えず、悩みに悩み、苦しみに苦しんだ末、密かにマリアと縁を切ろうと決めます。
しかも、それは、単なる道徳論からだけではなしに、「マリアのことを表沙汰にすることを望まなかった」であればこそ、密かにということになりました。
更に、ヨセフが表沙汰にしたくないというのは、ごまかし隠すためではなしに、子どもを身籠もってしまったマリアの罪を表沙汰にしないでおいてあげようという心の現れでもあり、マリアを裁判の席に着かせ、人目に晒して恥をかかせることへ追い込むことを望まなかったと言えましょう。だからこそ、マリアをそういう目に会わせず密かにということを選んだであろうことは想像に難くありません。
けれども、そうしたらそうしたで、次にはあることが待ち受けていることが想像できます。
それは、「あのヨセフという男は、婚約中であるにも拘わらずマリアを身籠もらせた。それを突然婚約解消とは、何と身勝手で薄情な男だ!」ということで、今度はマリアに同情が向けられ、自分には非難の雨が待ち受けているということです。
けれども、その一方で神様に向かっては、正しく在り続けたいといった具合に、複雑な思いがヨセフの胸の中を行き来したことでしょう。しかも、その心中をおいそれと人には話せないし、マリアにぶつけてみたところで、今更何の解決にもならない。
その中、イエス様のお誕生は刻一刻と進んでいます。ヨセフの心中を察しようにも、察し切れないことばかりです。そのようなヨセフの心と絡み合うような言葉があります。
「人間には、人には知らせられない心というものがある。醜い考えであったり、秘密であったり、密かな欲望であったり、恥であったり、しかし、そういう場所が時として神様に出会う場所になり得るのである。人は、概して誰彼問わず話せる事柄の中や、話せる場所で神様に出会うことは出来ない。寧ろ、誰にも言えず、一人で悩み、苦しみ、恥じている、そういう時、そういう場所でしか神様に出会うことは出来ない!」
かなり強い言い方という印象はありますが、まさにヨセフの心境にピタリと重なる感じがします。
そもそも、ヨセフには落ち度は全くと言っていい程ありません。しかし、神様に対して正しくあろうとするだけに深く悩み、苦しみの極みに達していますが、遂にそういうところで神様に出会います。出会うというよりも、そういうヨセフの中に神様のほうから神様自らが食い込んでいらしたというほうがより正しく思えます。
福音書が伝えています「主の天使が夢に現れて」とは、まさにそのことです。そして、天使は伝えます。
「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎えなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と。
天使を通して与えられた神様の御言ですが、もはや、事柄は自分のことだけでは済まなくなってきました。また、マリアとのことだけでも済まなくなってきました。
それどころか、あらゆる民全体にまで事柄は広がり始めています。しかも、天使はその名前にまで言い及んでいます。「その子をイエスと名付けなさい」と。
ヨセフに名付けさせるということは、自分の子どもとして受け入れ、迎え入れなさいということです。そして、このことは神様のお働きと、神の民全体を受け入れることへとつながっていったのでした。
しかも、話はここで終わらず、そういうヨセフを、神様がその一切を引き受けて下さるのだ、それこそが天使の伝言、即ち神様の言いつけに他なりませんでした。
今まさに、そのことが夢を通してヨセフに授けられたメッセージでしたが、夢を見たのはヨセフ一人であることからすれば、知らぬ存ぜぬを決め込むことも出来たことでしょう。
けれども、神様に対して正しく在ろうとするヨセフは、そのことを謙虚に、神様からの命として受け入れ、それに自分を従わせるほうを選び取りました。そして、遂に幼子に「イエス」という名を付けます。
付けはしたが、「神様は私たちの救い」という意味の名前は、当時としては珍しい名前ではなく、長男にはよくある名前であったようです。しかしながら、当時としてはありきたりな名前の幼子は、同時に「インマヌエル」という「神様が私たちと共におられる」という称号を帯びることにもなっていきます。
かくして、マリアとヨセフの元に生まれた一人の幼子は、単にマリアとヨセフの子、一大工(石工)の伜、一家の長男に留まるのではなく、私たちから片時も離れられることのない神様のお働きそのものとなられました。
ヨセフの苦悩を通して神様自らがおっしゃる「私が一緒にいる!」ということが、単なるお題目ではなしに、イエスという方のお誕生に始まり、ありとあらゆるお働きの内に打ち立てられ始めました。
当初小さな幼子のイエス様は、何度となくマリアやヨセフの腕に、胸に抱かれたことでしょうが、同時にマリアとヨセフもイエス様の心に抱かれていたと思えてなりません。
その抱かれるということを思います時、聖書本文とは離れますが、ある出来事を思い出します。
もう四十年程前のことになります。当時、私はまだ聖公会神学院の学生でしたが、聖路加国際病院で3週間の「臨床牧会訓練」(Pastoral Clinical Training)という実習がありました。
変な言い方ですが、まるで心まで裸にされるかのような厳しいものでした。6科、約30人の患者の方がたを担当しますが、実習ということで守秘義務を課せられる上で、一人一人の病状、背景などを伝えられ、病床へ赴きます。
ただし、我々は医師免許も、看護師免許もなく、あるのは聖書のみ言葉、神様のみ言葉、即ち福音だけです。
もちろん、単にお見舞いの仕方を身につけるものではなく、病者の傍らに立つ自分、立てない自分、何かを伝える自分、伝えられない自分、病床に在る方がたの声を聴ける自分、聴けない自分というものを嫌というほど知らされ、自分自身と向き合わされ、出会わされる等々のテーマがあります。
当時を思い出しますと、不遜とも傲慢とも、恥ずかしい限りでした。それは、大変な状況にある方がたを元気づけ、勇気づけてあげようという思いが心を占めていたからでした。退院間近の方がたや、新たな命を授かった方がたの顔は輝き、顔も上を向いていますが、そういう方ばかりではありません。
そのような中、十歳になるかならないかという少女が、小児科に入院していました。現代と違い、四十年前ですから、今なら快方へ向かう病も当時はまだまだ困難なものがありました。
その少女の病状は知らされていましたので、この時とばかりこの子を、親御さんを聖書の言葉をもって励まし、慰めようと思い病室のドアをノックしました。ドアを開け、一歩病室に足を踏み入れた瞬間、次に思ったことは一刻も早くここから出たいという思いでした。
小さな体に幾本もの管が入れられ、その姿に言葉を失うとともに、励ましてあげよう、慰めてあげようなどという高慢な思いは消し去られました。 何もできず、何も言えないどころか、早く逃げたいとさえ思いました。
「神様が助けてくださいます」「イエス様が一緒にいてくださいます」という言葉自体に間違いはありませんが、心の底から発せられる言葉でなければ、それは単なる活字、音声になりかねません。
その後も数回病室を訪ねましたが、どれだけ心を聴かせていただき、聴くことができたか、どれほど魂のこもったみ言葉を伝えられたかは、今でも恥ずかしい限りです。
そのような日々が過ぎていく中、ある日少女は看護師さんに車椅子で礼拝堂へ連れていってもらいました。現在は工事中で入れませんが、古い礼拝堂の中を祭壇へ向かって進みますと、左手に「よき羊飼い」の大きな壁画があります。
それをじっと見ていた少女は看護師に言いました。「私が死んだら、あの羊さんみたいにイエス様に抱っこされて神様にところに行かれるのだろうな、温かいだろうな」と。
幼子からほとばしり出た素晴らしい感性に裏打ちされた信仰告白です。今も、私自身の支えになっている言葉でもあります。
イエス様の腕に、懐に、心に、いつも抱いていただいている私たちですが、同時にイエス様の心を私たちの内に抱きつつ、目の前に来ているご降誕を感謝し、祝いたいと思います。