








2023年1月1日(日) 主イエス命名日
出エジプト 34:1-9; フィリピ2:9-13; ルカ 2:15-21
みなさん、明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
クリスマス・イヴのキャンドル・サーヴィスのときにもチラッとお話をいたしましたが、私は昨年、2022年の後半で、一応、コロナ禍が収束して、インフルエンザと 同じ扱いになっていると思っていました。残念ながら、その手前のところで2023年を迎えることになりました。
2022年を振り返りますと、再び公祷休止措置を取ることなく、毎週日曜日の礼拝と宣教活動を続けることができて、6人の受洗者と15人の堅信受領者が与えられました。 本当に感謝なことです。
規模を縮小してではありましたが、10月には2年ぶりの バザーも行われ、多くの方が教会に訪れました。
11月13日の75周年記念礼拝は、約130名の方々が共に集い、これまでの導きと祝福に感謝しつつ、祈りと讃美をささげました。
12月18日の日曜学校のクリスマス会には、約80名の子どもたちと100人を超える親御さんたちが集まりました。
クリスマス・イヴの2つのキャンドル・サーヴィスにはま約200人の方々が集い、3つの降誕日の聖餐式とユースの聖餐式にも、ほぼ200人の方々が集い、クリスマスを祝う恵みにあずかりました。
コロナ禍が過ぎ去っていない中にあっても、聖マーガ レット教会は神様の豊かな恵みと祝福と導きの中で、 2022年の歩みを終えることができたことを、共に感謝したいと思います。
今年はたまたま、1月1日の「主イエス命名日」が日曜日に重なったので、元旦にもかかわらず、8時と11時の2 つの聖餐式が行われますが、この1月1日の「主イエス命名日」と、顕現後第1主日の「主イエス洗礼の日」には、 共通する要素があります。
それは「共同体に加えられる」、「コミュニティーの中に迎え入れる」ということです。
今朝の福音書朗読で読まれた箇所で、直接に「主イエ ス命名日」と関係しているのは21節だけです。ルカは、この1節で2つのことを語っています。
それは、生まれてきた男の子が、天使に告げられた通りに「イエス」と名づけられたことと、もう一つは、生まれた8日後に割礼が施されたということです。
天使に告げられたというギリシア語で「イエースース」、ヘブライ語で「イェシュアー」という名前は、まったくもってありふれた名前です。旧約聖書の「ヨシュア」と同じ名前です。
恐らく「ヤーヴェは救い」を意味するこの名前の男性 は、イエス様の周りにいくらでもいたはずです。ただ「イエス」と言っただけでは、どこの「イエス」かわからないので、「ナザレのイエス」と出身地と結びつけて特定をするわけです。
そして恐らく、ナザレ出身の「イェシュアー」は沢山いたことでしょう。ですから、当時のイスラエル社会の文脈の中で言えば、「イエス」という名前には、それほど大きな意義はありませんでした。
(ちなみに「マリア」のヘブライ語名は「ミルアーム」、モーセの姉妹ミリアムと同じ名前です。)
むしろ、イエス様が生まれた世界、あるいは社会的文脈の中では、男の子が生まれたら8日目に割礼を施すということの方が、決定的に重要でした。
というのは、割礼を受けていない男性は、イスラエルの社会から排斥されることになっていたからです。
去年の主イエス命名日にもお話しましたが、男性器の包皮を切除する「割礼」という儀礼は、イスラエルに独自のものではありません。昔から、世界の様々な地域で行われていました。
「行われていた」という表現はむしろ不正確で、割礼という儀式は、現在でも世界中の様々な地域で行われています。WHOの報告によれば、世界の男性の約30%が割礼を受けているとのことです。
もちろん、神様が、「オレは割礼を受けていない人間は受け入れない!」なんて言うはずはありません。しかし、イエス様の時代のユダヤ教においては、割礼を受けていることが、イスラエルという共同体に加えられるための絶対的条件でした。
そして来週の日曜日、「主イエス洗礼の日」には、イエス様が洗礼を受ける話が福音書朗読として読まれます (マタイ 3:13-17)。
福音書の中ではきちんと説明はされていませんが、洗礼は、イエス様をバプテスマのヨハネの弟子集団に受け入れるための儀礼でした。
つまり、「割礼」は「イスラエルの民」に加えるための儀礼であり、洗礼は「ヨハネの弟子集団」に加えるための儀礼だということです。このような、コミュニティーに迎え入れるための儀礼はみな、’initiation’ と呼ばれます。
今日、11時からの礼拝の中で、S•T•Kくんの洗礼式が行われますが、それは個人的な出来事ではありません。
洗礼は、それを受けると罪が赦されて天国に入れるマジックでも、呪文でもありません。洗礼は共同体の中に受け入れられる出来事であり、共同体が新たなメンバーを受け入れるできごとです。洗礼は徹底的に共同体的なできごとなのです。
そして、 重要なことは、洗礼を通してこの共同体に加えられた私たちが、どのような共同体を作り上げていくのかという ことです。
私は昨年から、教会とは本来は組織じゃなくて、Jesus Movement なんだと度々お話ししていますが、Jesus Movement というのはコミュニティー作りそのものです。
教会が神の国を指し示す民として成長するためには、できる限り多くの人に向かって開かれていると同時に、コミュニティーを破壊する力と戦い、共同体を崩壊させるような態度や行いを退けていかなくてはなりません。
教会というのは、この二つの天秤をバランスさせながらロープの上を慎重に歩く、綱渡り師のようなものです。
喜びと同時に、大きな困難を伴うこのチャレンジを引き受け、成長してゆくために、私たちはコミュニティーの土台となる価値を、大切にするべきものと、退けるものとを、主から学びつつ、歩みを続けます。
願わくは、この年も主が聖マーガレット教会の歩みを導き、祝福を注ぎ、ますます多くの人々をこの共同体に招き入れ、Jesus Movement として成長させてくださいま すように。