








2023年1月8日(日)顕現後第1主日・主イエス洗礼の日
イザヤ 42:1-9; 使徒 10:34-38; マタイ 3:13-17
1月6日の顕現日、Epiphanyの直後の日曜日は、イエス様が洗礼を受けられたことを記念する祝日となっていますが、イエス様の洗礼は、元々は顕現日に記念される出来事の一つでした。
教会の祝日の中で、その起源を紀元後の4世紀以前まで遡れるものはほとんどありませんが、顕現日に関する一番古い記録は2世紀前半まで遡ることができます。それによれば、バシリディアス派という「グノーシス系異端」とされるグループは、顕現日に「イエス様の洗礼」を記念する何らかの礼拝を行なっていました。
「顕現日」という名前は、ギリシア語、‘epiphanein’、「あらわす」という動詞から来ています。顕現日は、福音書に記されているイエス様の栄光を現す出来事、あるいは神の栄光がイエス様を通して現れる出来事を記念する日だと言うことです。
しかし、「どの出来事がイエス様の栄光を最も現しているか」というのもおかしな質問ですし、それに対する答えも一つにはなりません。そのため、「顕現日」に何を記念するかは、地域によって、時代によって異なりました。
イエス様の洗礼の他には、東方の博士たちがイエス様を訪ねて礼拝した出来事、5千人の給食の出来事、イエス様の誕生などが記念されました。クリスマスはもともと、顕現日にお祝いされることの一つだったのですが、4世紀以降に顕現日から分離独立して、12月25日に固定されたということになります。
前置きが長くなってしまいましたが、ここからイエス様の洗礼の話に戻ります。
イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けた。これは紛れもない歴史的事実です。しかしこの歴史的事実は、教会の歴史の中で、特に「教義」の発展の歴史の中で、大問題となりました。
発端は、「罪なきイエス・キリストがなぜ、バプテスマのヨハネから、罪の赦しのバプテスマを受けたのか」、という質問です。
この質問に対する答えとして、アレクサンドリアのオリゲネス (b. 185; fl. c. 200–254)も、ポワティエのヒラリウス (315-367)も、ヒエロニムス (c. 347–420)、モプスエティアのテオドロス (c. 350–428)も、「水を清めるため」だった、と主張します。
この手の質問は、教会が自分たちの立場を弁護し、あるいは正当化しようとすることから出てきます。それは護教論、apologeticsとなり、護教論は後に、教会の公式な「教義」として固定化されます。
実は、ここに大きな落とし穴があります。「あなたたちはどんな神様を何を信じているんですか。どんな神様を礼拝しているんですか。」そう聞かれて答えようとすることには、何も否定的なことはありません。
ところが「自分たちの正しさ」を主張しようとすればするほど、信仰の原点、イエス・キリストが始められた、いえ、神ご自身がイエス・キリストを通して始められた運動の、本当の力が見えなくなります。
そもそも、教義や護教論を通して神様の愛や恵みを感じたり、神様の神秘に触れる人はいません。
三位一体論の背景となったアリウス論争について詳しく調べ、三位一体論争のキーワードとなった hypostasis, homoousia, homoiousios いう言葉について詳細な解説を聞いて、「神様はなんと恵み深い方なのでしょう!」と喜びの叫びを上げたんです。そんな話は聞いたことがありません。
イエス様は、バプテスマのヨハネから、「罪の赦しのためのバプテスマ」、(ギリシア語の文字通りの意味では、罪の赦しの中へのバプテスマ)を受けました。それが歴史的事実です。
バプテスマのヨハネから洗礼を受けて、イエス様はバプテスマのヨハネの弟子集団に加えられました。それは、イエス様が、バプテスマのヨハネが展開していた神の国運動のコミュニティーの一員として迎えられたということです。これも歴史的事実です。
けれどもイエス様は、あるとき、バプテスマのヨハネと別の道を歩むことにしました。イエス様は、バプテスマのヨハネが語っていた神の国とは異なる、まったく新しい、独自の神の国の運動を始めたのです。そして、自分が始めた神の国の運動の担い手となる者たちを集め、血縁を越える新しい家族共同体を、神の国を指し示すコミュニティーを創出しました。
私たちはこの運動の後継者であり、イエス・キリストから二千年後の今も、この場所にあって、神の国を指し示すコミュニティーとしてのあり方を模索しているのです。
大切なことは、自己弁護や自己正当化のために時間と力を注ぐことではありません。護教論的になればなるほど、自己正当化に走れば走るほど、イエス様が展開した運動のインパクトが感じられなくなり、イエス様を通して働かれた神の業も見えなくなります。
イエス様の権威を高めるために、バプテスマのヨハネの権威を下げようとしたり、イエス様の権威にバプテスマのヨハネを従属させようとしたところで、そんなことでイエス様の始められた神の国運動が豊かになったり、活力を得たりすることなどないはずです。
イエス様がバプテスマのヨハネの弟子としてキャリアを始めることが無ければ、イエス様の神の国運動は無かったはずです。そう言う意味では、確かにバプテスマのヨハネは、イエス様の道備えをしたと言えなくはありません。
けれども、それはバプテスマのヨハネ自身が考えていたことではありません。むしろ神様は、イエス・キリストと教会を通してだけではなく、バプテスマのヨハネと彼の弟子たちを通しても働かれたことを素直に認めるべきです。
重要なことは、運動の原点への回帰です。イエス・キリストの言葉と働きの中に、私たちに希望と喜びを与え、「これは喜びの知らせなんだ!」、「これを分かち合いたいんだ!」と私たちを奮い立たせる原動力を見出すことです。
神の国の運動は、完成に至るまで、運動であり続けなくてはなりません。運動は運動としての内的ダイナミズムを失えばしぼんでしまいます。
私たちがどのように神を知り、どのように神を理解し、そしてどのように神と共に歩むのか。教会がこのような問いに向き合うとき、イエス様こそが私たちロールモデルです。イエス様が父なる神に従ったように、イエス・キリストの弟子である私たちは、イエス様のように神に従う道を歩もうとします。
では、イエス様のように神様と共に歩むとは、どんなことなのでしょうか。実は、イエス様のように神様に従う道に、決められた道はありません。マニュアルもありません。ここにこそ、教会を組織としてではなく、Jesus Movementとして捉えることのポイントがあります。
日本だけではなく、かつて「キリスト教国」と言われたところでも、これまでの教会組織は維持できないところに来ています。既成組織の終わりが間近に迫っている状況の中で、過去を懐かしんでも、過去の栄光について語って話が盛り上がっても、Jesus Movementとしての教会を再活性化することにはつながりません。
むしろ、これまでの組織が終わっても、運動としてのダイナミズムがあれば、聖霊の力があれば、イエス様が始められた運動は、Jesus Movementは前進し、発展していきます。
聖マーガレット教会が、いつもイエス・キリストの言葉と働きに立ち返り、その中に希望と喜び見出し、主イエスの運動として豊かにされ、成長してゆきますように。