



1月15日(日)顕現後第2主日
イザヤ 49:1-7; Iコリント 1:1-9; ヨハネ 1:29-41
今日の福音書朗読で読まれた箇所を注意深く読んでみると、そこに書かれている内容に私たちは驚かされます。
ヨハネ福音書1章32節は、バプテスマのヨハネに「わたしは、”霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」と言わせています。
先週、顕現後第1主日、主イエス洗礼の日の福音書朗読は、マタイによる福音書の3章13節から17節までが読まれましたが、16節にはこう書かれています。
「イエスは洗礼を受けると、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのを御覧になった。」
自分の無知を告白いたしますが、わたしはつい数年前まで、イエス様の上に霊が天から鳩のように降ってくる、という福音書の記述はすべて、イエス様の洗礼の場面に結びついていると思っていました。
ところが、説教準備のために詳しくヨハネ福音書を読み直していた時、ヨハネ福音書では、イエス様が洗礼を受けていないことに、初めて気づき、驚きました。
同時にそのとき初めて、1世紀から2世紀前半にいたるまで、教会にとって「バプテスマのヨハネ」が大問題であり続けたことにも気づきました。
マルコ福音書とマタイ福音書はイエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けたことを記していますが、バプテスマのヨハネはイエス様のために準備をする人だったとすることで「問題」を解決しようとしています。
この路線を最もエレガントに展開したのは、ルカ福音書です。ルカは、「イエス様の道備え」というバプテスマのヨハネの役割と、「救い主」としてのイエス様の役割は、二人が母の胎に宿った時すでに、神によって定められたものだと語ります。
更にルカは、イエス様が洗礼を受ける「前に」、バプテスマのヨハネを牢獄に放り込むことで、イエス様が「誰から洗礼を受けたのか」を見えにくくしようともしています。
ところが、ヨハネ福音書の著者は、「共観福音書はバプテスマのヨハネを十分に格下げしていない。しかも、そのために、イエス様の栄光が曇らされている。」と考えていました。
ヨハネ福音書の著者は、イエス様の栄光を高く引き上げ、バプテスマのヨハネをイエス様の足下に従わせるためには、イエス様とバプテスマのヨハネとを徹底的に切り離す必要があると考えていました。
今日の福音書朗読の中で、ヨハネ福音書の著者は、イエス様に「ついて」多くのことを、バプテスマのヨハネに語らせています。ところが、31節と33節では、バプテスマのヨハネに、「わたしはこの方を知らなかった」と言わせています。
つまり、ヨハネ福音書のバプテスマのヨハネは、イエス様に「ついて」多くのことを語っているけれども、イエス様「と」は、一言も言葉を交わしたことがないことになっているのです。
もちろん、そんなことはありえません。バプテスマのヨハネとイエス様とを徹底的に切り離すヨハネ福音書の戦略は、今日の福音書朗読の後半で、すでにほころびを見せています。
バプテスマのヨハネの弟子たちの内の二人が、彼の証しを「聞いて」イエス様に従った、イエス様の弟子となった、と書かれています。しかも、そのうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟、アンデレでした。
しかし、即座に疑問が湧いてきます。もしバプテスマのヨハネが、今朝の福音書朗読に語られているように、イエス様についての証言をしたのであれば、なぜたった二人の弟子しか、イエス様に着いていかなかったのでしょうか?
ヨハネ福音書を読み進めていくと、この綻びはますます大きくなっていきます。
3章には、イエス様が洗礼を授けて弟子を作っているときに、他の場所で、ヨハネも洗礼を授けて弟子を作っていた様子が記されています。
バプテスマのヨハネはイエス様が現れたからといって、自分の運動も、弟子を作ることもやめていないのです。実際、バプテスマのヨハネの弟子たちは、1世紀後半から2世紀初めにも存在し続けています。
今朝の福音書朗読で読まれた短い箇所からも明らかになることは、聖書という書物に、私たちが期待するような歴史的正確さや、倫理的完全性が備わっているわけではないということです。
聖書が歴史的正確さや倫理的完全性を備えているかのような聖書の捉え方は、聖書のテキストそのものから出てくるわけではありません。
それは、教会の自己正当化の試みから出てくるものです。この自己正当化の道を突き進む時、極めて危険な自己絶対化と、排他主義と、巨大な暴力性が生まれます。
では、聖書が歴史的に正確でも無ければ、倫理的に完全でもないと、私たちの信仰は揺らいでしまうのでしょうか?
そんなことはありません。むしろ、聖書のテキストと素直に向き合い、その不正確さや、倫理的欠陥に気づくことで、私たちの信仰は危険な自己正当化や自己絶対化から解放されて、自由になります。
イエス・キリストを通して神を知り、神に従おうとする道には、大きな自由があります。今朝の福音書朗読も、その自由を証しています。
ヨハネ福音書の著者は、信仰の自由を行使することによって、バプテスマのヨハネについても、そしてイエス・キリストについても、共観福音書とは全く異なる描き方をすることができました。
ヨハネ福音書のイエス・キリストは、神の国の福音を語りません。ヨハネ福音書のイエス・キリストは、「まことの過越の小羊」として、「父なる神と一つである父の息子」として描かれます。
ヨハネ福音書の著者は、バプテスマのヨハネと結びつけてイエス・キリストのことを理解することを徹底的に嫌いました。ヨハネ福音書のイエス・キリストが、神の国についてほとんど何も語らないのはそのためです。
歴史的に言えば、「神の国」の到来を最初に告げ知らせ、神の国運動を最初に展開したのはバプテスマのヨハネです。イエス様を「神の国の宣教者」として描けば、必然的に、バプテスマのヨハネの神の国運動との比較が出てきます。ヨハネ福音書の著者は、それをしたくなかったのです。
今日の福音書朗読は私たちに、イエス・キリストについてどのように理解するか、神様についてどのように理解するのかということについて、私たちには大きな自由が与えられていることを教えてくれます。
20世紀前半の偉大な神学者に、Pierre Teilhard de Chardinという人がいます。彼はイエズス会士でしたが、優れた古生物学者であり、地質学者でもありました。彼は北京原人の発見にも関わてっています。
科学者としてのTeilhard de Chardinは、カトリック教会が進化論を科学的真理として受け入れるはるか前に、その正しさを確信していました。ローマ・カトリック教会が進化論を公式に認めたのは、1996年のことです。
彼は、自分の信仰と、自分がその正しさを確信している進化論とを、分離させておこうとはしませんでした。むしろ、双方を融合させようとしました。
Teilhard de Chardinは、イエス・キリストを、進化の方向性を導く原理であると共に、進化のプロセスを通して展開される神の天地創造の業の到達点として理解し、これをオメガ点と呼びました。
つまりTeilhard de Chardinは、進化論を通して、新しいキリスト論を展開したのです。
ヨハネ福音書の著者が、ギリシア哲学において重要な概念であったロゴスを通してイエス・キリスト理解しようとしたように、Teilhard de Chardinは進化論を通してキリストを理解しようとしました。
真理は私たちを自由にします。本当の信仰には、大きな自由があります。
私たちの信仰が、人を奴隷とするものにならないように、むしろ、イエス・キリストへの信仰が私たちにもたらす大きな自由を私たちがますます深く知ることができるように、聖霊の導きを求めて祈りましょう。