1月18日 中高礼拝 説教

1月18日(水)中高礼拝 説教 ヨハネ 1:29-41

さて、今朝読まれたヨハネの福音書の箇所に、霊が鳩のように天から降ってきてイエス様の上にとどまったという描写がありました。

この話は、一言一句同じではないものの、ヨハネ福音書以外の3つの福音書、マタイ、マルコ、ルカにも出てきます。

ところが、天から霊が降ってきてイエス様の上に留まるときの「状況」は、ヨハネ福音書と他の3つとでは、まったく違います。

マタイ、マルコ、ルカの福音書では、天から霊が降ってきてイエス様の上に留まる出来事は、イエス様の洗礼の場面と結びついています。

ところが、ヨハネ福音書のイエス様は洗礼を受けていません!ヨハネ福音書を書いた人は、イエス様に洗礼を受けさせたく無かったんです。

さらに、ヨハネ福音書のイエス様は、「神の国」を宣べ伝えることさえありません。歴史的に言うと、「神の国」について最初に語り、神の国運動を最初に展開したのもバプテスマのヨハネでした。

イエス様を「神の国の宣教者」として描けば、直ちに、バプテスマのヨハネとイエス様との比較が始まります。必ず、イエス様の語った神の国と、バプテスマのヨハネが語った神の国は同じなのか、違うのか、という質問が始まります。

ヨハネ福音書の著者は、バプテスマのヨハネとの関係の中でイエス様を理解することを徹底的に嫌ったので、イエス様に洗礼も受けさせないし、神の国についても語らせません。

今朝読まれたヨハネ福音書の箇所は(も)、イエス・キリストについて、そして神様についてどのように理解するのかということについて、私たちには大きな自由が与えられていることを示しています。

ヨハネ福音書の著者は、信仰の自由を行使することによって、バプテスマのヨハネについても、そしてイエス・キリストについても、共観福音書と全く異なる描き方をすることができたのです。

20世紀前半の偉大な神学者に、Pierre Teilhard de Chardinという人がいました。彼は古生物学者であり、地質学者でもあり、北京原人の発見にも関わっていました。

科学者としてのTeilhard de Chardinは、カトリック教会が進化論を科学的真理として受け入れるはるか前に、その正しさを確信していました。ちなみに、ローマ・カトリック教会が進化論を公式に認めたのは、1996年のことです。

彼は、自分の信仰と、自分がその正しさを深く確信している進化論とを、分離させておこうとはしませんでした。むしろ、双方を融合させようとしました。

Teilhard de Chardinは、イエス・キリストを、進化の方向性を導く原理であると共に、進化のプロセスを通して展開される、神の天地創造の業の到達点として理解し、これをオメガ点と呼びました。

ヨハネ福音書の著者が、ギリシア哲学において重要な概念であった「ロゴス」を通してイエス・キリスト理解しようとしたように、Teilhard de Chardinは進化論を通して、イエス・キリストを新たに理解しようとしました。

真理は私たちを自由にします。そして本当の信仰には、大きな自由があり、その自由が、皆さんの目を真理に向かって開きます。

この学校で学びながら、皆さんもイエス・キリストによって与えられる信仰の自由を見出し、その信仰の自由に促されて、真理の探究へと導かれますように。