顕現後第3主日 説教

1月22日(日)顕現後第3主日

アモス 3:1-8; Iコリント 1:10-17; マタイ 4:12-23

今朝の福音書朗読は、イエス様の宣教活動開始を告げる箇所です。

マタイはマルコにならって、バプテスマのヨハネがヘロデ・アンティパスによって投獄された後に、イエス様が宣教活動を始めたことにしています。

しかもマタイは、バプテスマのヨハネが活動を開始した時の言葉、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(Μετανοεῖτε, ἤγγικεν γὰρ ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν.) 、これをそのまま、イエス様の宣教活動の開始を告げる言葉としています。

すべての福音書に共通しているように、マタイもバプテスマのヨハネを、イエス様の宣教活動のために道備えをする役割と位置付けています。

しかし、マタイ福音書においては、バプテスマのヨハネの宣教活動とイエス様の宣教活動との連続性が際立っています。マタイ福音書の流れでは、イエス様はバプテスマのヨハネの後継者として位置付けられていると言っても過言ではありません。

「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉をもってイエス様が宣教活動を開始したということは、イエス様がバプテスマのヨハネの運動を引き継いだということを示しているとも言えます。

マタイがバプテスマのヨハネとイエス様の連続性を強調し、イエス様をバプテスマのヨハネの後継者として位置付けているのには、バプテスマのヨハネの弟子たちを教会に迎え入れて、イエス・キリストの神の国の運動と統合するという意図があったからでしょう。

マタイ福音書が書かれたのは紀元後の80年頃だと思われますが、その時にも、バプテスマのヨハネの弟子集団とイエス様の弟子集団が併存していました。

紀元後の70年にエルサレム神殿が崩壊した結果、神殿祭儀を中心としたユダヤ教は崩壊し、ユダヤ教そのものの劇的な再編が不可欠となりました。

サドカイ派はイスラエルの神殿中心体制に結びついた貴族階級なので、神殿の崩壊と共にサドカイ派も実質的に消滅しました。

神殿無き後、ユダヤ教の再編において中心勢力となったのは、ユダヤ人ミドルクラスの信徒運動であったファリサイ派でした。

マタイ福音書は、神殿崩壊後に、ファイサイ派がユダヤ人社会のメインストリームとして確固たる地位を固めた後に書かれました。

そのために、マタイの福音書の全体には、メインストリームのファリサイ派と、マイノリティーの教会との対立関係が投映されています。イエス様とファリサイ派の人々の対立として描かれているのは、実際には教会とファリサイ派との対立です。

しかしマタイ福音書が書かれた時代、ユダヤ人のマイノリティー集団は教会だけではありませんでした。そのうちの一つが、バプテスマのヨハネの弟子集団でした。

バプテスマのヨハネの弟子集団も主流派のユダヤ人に受け入れられなかったことは、マタイ福音書の21章からもわかります。

マタイは、バプテスマのヨハネとイエス様の連続性を示し、イエス様をバプテスマのヨハネの後継者にすることで、ファリサイ派が中心勢力となったユダヤ人社会における二つのマイノリティー集団を、二つの神の国の運動を、一つにしたかったのでしょう。

しかし、それから10年以上が経過し、世紀の変わり目になっても、バプテスマのヨハネの弟子たちが教会に加わることはありませんでした。

ヨハネ福音書が書かれたのは紀元後の90年頃で、最終的な編集が終わったのは2世紀前半のことですが、ヨハネ福音書では、イエス様とバプテスマのヨハネは徹底的に切り離されています。

バプテスマのヨハネとイエス様は、直接には言葉を交わしたこともないし、二人は同じ時に、別の場所で、並行して活動していたことになっています。

これは、1世紀後半から2世紀初頭には、もはやバプテスマのヨハネの弟子集団と教会を一つにする可能性が無くなっていたことを示しているのでしょう。

イエス様自身の宣教活動が、バプテスマのヨハネが表舞台から姿を消した後に始まったのか、それとも並行していたのか、歴史的な事実はわかりません。

しかし、今朝の福音書に描かれているイエス様の宣教活動の開始とその展開の様子について確かに言えることは、これが、イエス様の弟子として歩む者たちにとっての、教会の宣教の働きにとっての、モデルとして提示されているということです。

 イエス様は宣教活動を始める時、自分の家を、故郷のナザレを離れて、神の国運動の拠点をガリラヤこの北側の町、カファルナウムに据えました。これは、神の国の働きを開始するとき、イエス様は自分の慣れ親しんだ故郷も、そして家族も捨てたということです。

天の国、神の国の到来に向けて備えるということは、生き方の方向転換を必要とします。「悔い改めよ」と訳されている言葉は、「方向転換せよ!」、「生き方を変えろ!」という意味の言葉です。

これまでの生き方を変えるということは、「何かを捨てる」ということです。それは、これまで握りしめていたものを捨てることであったり、これまでいた場所を離れることであったり、これまでしていたことを止めることであったりします。

イエス様の最初の弟子として登場する、シモン・ペトロとアンデレ、そしてゼベダイの子のヤコブとヨハネは、イエス様の弟子として歩むために、漁師としての仕事を捨てることになりました。

私たちがアバディーンにいた時に出会ったアメリカ人の友人のDは、大人になってから、結婚後に、伴侶と共に教会に行くようになりました。しばらく教会に通った後、夫婦は一緒に洗礼を受け、クリスチャンとして歩み始めました。

受洗後、Dは、自分の仕事を続けるべきかどうか、悩むようになりました。彼は警察官でした。アメリカで警察官として働くことは、いつ人に向かって銃を発射してもおかしくない日常に身を置くということです。

悩みつつ祈り続けた末、彼はクリスチャンとしての新しい生き方と、相手が武器を持っていたなら躊躇なく引き金を引かねばならないという警察官としての要求を両立することはできないと考えるようになりました。

こうしてDは、イエス様の最初の弟子たちと同じように、人生の方向転換の結果として、それまでの仕事を捨てることになりました。

もちろん、洗礼を受けてクリスチャンになる人が皆、仕事を捨てるわけではありません。しかしイエス・キリストの弟子となって、天の国の運動員として生きるということは、「何かを捨てる」こと無しには不可能です。

ですから、これまでの人生の、何一つとして捨てたくないという人に、クリスチャンという生き方を勧めることはできません。

さらに、イエス様が求める「方向転換」は、決して一度限りの出来事ではありません。むしろイエス様と共に、この世で旅を続ける限り、生涯に渡って続くプロセスです。

これはイエス様が始めて、私たちもそこに加わるようにと招かれた神の国の運動を担うコミュニティーとしての教会にとっても、極めて重要なことです。

ちなみに、神の国の運動と Jesus Movementは同じです。イエス様が始められた神の国の運動がJesus Movementです。

Jesus Movement は、神の国のために、握りしめていたものを捨て、慣れ親しんだ場所を離れ、変化し続けることを厭わない、新たな運動員を生み出し続けることによってのみ、豊かになり、成長していきます。

すでにこの運動に加えられた私たちは、握りしめていたものを捨て、慣れ親しんだ場所を離れ、Jesus Movement を共に担う人々を主が聖マーガレット教会に送ってくださるようにと祈り続けます。

そして、主が送ってくださる方たちを聖マーガレット教会に迎えるためには、私たち自身も、これまでに慣れ親しんできた「何か」を捨て、これまでの「囲い」の外に、一歩踏み出すことが必要になります。

 願わくは、主が私たちを、神の国のために変わることを喜ぶ者としてくださいますように。