







1月29日(日)顕現後第4主日
ミカ 6:1-8; Iコリント1:18-31; マタイ 5:1-12
異邦人の使徒パウロは、新約聖書に収められた多くの手紙を書いたことで知られています。「使徒」と呼ばれる人々の中で、自分で書物を書き残したのはパウロだけです。
イエス様は何も書き残していませんし、さらに生前のイエス様の弟子たちも誰一人、何も書き残してはいません。これは非常に驚くべきことです。
パウロが多く教会に宛てて、多くの手紙を書くことになったのは、使徒時代の教会にも、ありとあらゆる問題が溢れていたからです。単純化して言えば、手紙を書く目的は、問題を解決するためです。
コリントの教会にも様々な問題が山積していましたが、最も深刻な問題は、コミュニティーの分裂でした。
コリントの教会はタレント揃いでしたが、同時にプライドの高い人たちに溢れていました。それぞれがそれぞれに、自分の誇りとするものをぶつけ合い、多くの派閥に別れ、教会は分裂状態にありました。
中でも、自分たちはギリシア的教養を身につけた文化人だと誇る人々が、分裂の震源地になっていました。彼らはギリシア的知恵を基準として、教会の中で福音として語られていることの真偽を判別できると信じていました。その結果、コリントの教会では、キリストの復活も否定されるようになりました。
パウロはコリントの教会の人々を、自分が述べ伝えた福音、「十字架に死んで、神に甦らされたイエス・キリスト」に踏みとどまらせるために、「神の知恵」と「この世の知恵」を対決させます。
パウロによれば、「十字架で死んで、復活させられたイエス・キリストは、救われる人たちにとっては「神の知恵」ですが、滅びる人々はそれを「愚かなこと」と見なします。
人は「この世の知恵」によって神の救いの業について知ることはできないのに、自分が知者だと思っている者たちは、「この世の知恵」の愚かさによって「神の知恵」を否定し、滅びることになります。
つまりパウロは、この世の知者は、「この世の知恵」によって「神の知恵」を退け、滅びに至る者たちなのだから、そんな連中に惑わされるなと言っているわけです。
ところが、実はこの手紙の中でパウロが「言っていること」と、彼が「していること」の間には、大きなギャップがあります。
パウロが、異邦人の使徒として世界をかけ巡り、福音を宣べ伝え、宣教を成功へと導くことができたのは、彼が身につけた「この世の知恵」のおかげです。
ヨハネ福音書が、ギリシアの知恵無しには決して書かれ得なかったように、パウロの宣教活動も、彼が受けたエリート教育と、それによって身につけた「この世の知恵」無しには不可能でした。
パウロは非常に話下手でしたが、書く能力の方は頭抜けていました。キリスト教教義の発展の中で、パウロの手紙が絶大な影響力を持つことになったのは、パウロが身につけた「この世の知恵」、レトリックの賜物です。
繰り返しになりますが、パウロの宣教活動を可能にしたのも、パウロの手紙をこれほど影響力の大きなものとしたのも、彼が身につけた「この世の知恵」でした。
更に、ユダヤ教の「知恵」の伝統は、ヘレニズムとの出会いによって触発され、大いに発展しました。
知恵は神の天地創造の業を貫いているが故に、世界の有様を観察し、思い巡らすことを通して与えられる知恵は、神について「何か」を教えてくれます。実はこの「知恵」の伝統こそが、イエス様ご自身の教えをも貫いています。
しばしば、イエス様は預言者の伝統に属していると言われることがあります。
確かに、正義と公正を行うようにという典型的な預言者の訴えには、貧しい者たちや病の者たちこそが、神の国に招かれているのだと語る、イエス様の教えに繋がる部分があるようにも思えます。
ところが、注意深く見てみると、イエス様と旧約聖書の預言者たちとの間には、共通する部分よりも、違いの方が際立っていることがわかります。
イエス様と預言者との間にある最も重大な違いは、律法に対する態度です。律法に関しては、預言者たちは非常に保守的です。預言者が、正義がなされていない、不正が行われていると告発するのは、律法に照らしての話です。
ですから預言者は、民の指導者たちや、商売をする者たちが、律法に従って行動することを求めているわけです。
ところがイエス様の教えの大部分は、律法とほとんど接点がありません。さらにイエス様は、律法に従って生活をしようとすらしていません。
イエス様は度々、というよりもほとんどいつも、「お前は律法を破っている」「お前は神の掟に従って歩んでいない」と、イスラエルの指導的立場にある人たちから非難されています。
そのような非難を受けた時、イエス様は常に、自分を律法の上に置いています。イエス様が十字架につけられて殺されることになった直接的な原因は、イエス様が律法に対して自由に振る舞っていたことでした。
そして、イエス様が神の国について語る時、旧約聖書のテキストから話をすることはまずありません。イエス様の教えの題材は、パーティー、結婚披露宴、種まき、カラシ種の成長、パン種、スズメ、野のユリ、ぶどう園で働く労働者などです。これらはみな、イエス様の日常生活の光景の中に、日々の何気ない出来事の中に、「世」にあるものです。
世界にあるものの中に、世界で起こる出来事の中に神を見るのは、預言者の伝統ではなく、知恵の伝統です。ですから、私たちは、パウロの言葉の表面上の印象に流されて、反知性主義に走るようなことがあってはなりません。
反知性主義を掲げて無知を賞賛し、教えられることに「疑いを抱かない」ことを信仰生活の最も重要な徳目とするとき、カルト化が始まります。
統一教会の荒唐無稽な教えを「真理」として受け入れさせ、固定化するためには、あらかじめ「疑い」を絶対的な悪として刷り込む必要があります。
洗脳が目指すのは、「疑い」を人間の中から消し去ることです。健全な信仰には健全な「疑い」が絶対不可欠です。そして信仰の中に「疑い」の場を常に残しておくためには、信仰とアタマを繋げておくことが必要です。
この「健全な疑い」が、信仰に対しても、そして自分自身の知的限界に対しても向けられるときに初めて、私たちは健全な信仰と、健全な知恵とにおいて成長します。
こうして、信仰と知恵とが一つになるとき、私たちは、自分の知的限界によって信仰を否定することからも、信仰がカルト化することからも守られます。
「健全な疑い」によって私たちの信仰と知恵とが常に修正され、私たちの歩みが、カルト化と信仰否定の双方から守られますように。