








2月5日(日)顕現後第5主日
ハバクク 3:1-6,17-19; Iコリント 2:1-11; マタイ 5:13-20
今朝の福音書朗読は、先週の「山上の説教」の続きの部分です。
マタイ福音書の5章から7章は、「山上の説教」として知られています。しかし「山上の説教」は、イエス様が実際に行った説教が記録されたものではありません。
では誰が「山上の説教」を作ったのかと聞きたくなるかもしれませんが、その答えは「マタイ福音書を書いた人です」ということになります。
今朝の福音書朗読で読まれた、「あなたがたは地の塩である」と始まる13節と、「あなたがたは世の光である」と始まる14節から17節の部分に該当する箇所は、マルコ福音書にもルカ福音書にもあります。
今回は、マタイ福音書の「世の光」と対応関係にあるマルコ福音書の並行箇所だけ見てみたいと思います。
マルコ福音書側の並行箇所は、4章21節と22節です。そこにはこのようにあります。
「21 灯 (λύχνος) を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。22 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、明るみに出ないものはない。」
まず、マタイ福音書の「世の光」の「光」は、マルコ福音書では「灯 (λύχνος)」となっていいます。そして、「灯 (λύχνος)」の話の後に、「塩」の話は出てきません。「塩」の話は全く別の文脈で出てきます。
残念ながら、今読んだ協会共同訳の日本語は、元のギリシア語のニュアンスを著しく損なっています。日本語としては分かりにくいですが、ギリシア語から直訳すると、おおよそこのようになります。
「ランプが来るのは測り桝の下やベッドの下に置かれるためではなく、ランプスタンドの上に置かれるためではないのか。そもそも、明らかにされるためでない秘密はない(隠されるのは、明らかにされるためだ=隠すのは、いつか再び取り出すため)。隠されたたもので露わなにならなかったものものはないのだ。」(Mk 4:21-23)
主語が「ランプ」であることに、お気づきになられたでしょうか。ランプを「持ってくる誰か」はいなくて、ランプが自らやってくるのです。これはとても重要なポイントです。なぜなら、マルコ福音書の文脈では、「やってくるランプ」はイエス・キリストのことだからです。
そして、「明らかになるべき秘密」も、「私たちが決して人に知られたくないこと」とか「絶対に人には話せない、墓場までもっていく隠し事」ではありません。イエス・キリストご自身のことです。
今は知られていない、有るのか無いのかわからない、カラシ種のようなイエス・キリストという秘密が、必ず、誰の目にも明らかになるときがやってくる。そのことをマルコ福音書は語っています。
ところがマタイ福音書では、「世の光」は「あなたがた」になっています。光だけではなく、「塩」も「あなたがた」となっています。この「あなたがた」は、マタイ福音書の著者が所属している教会です。実は、マタイ福音書は、極めて「教会的」な福音書なのです。
もちろん、すべての福音書の背後には、福音書を書いた人たち自身が所属している教会があります。そういう意味では、すべての福音書は「教会的」です。
しかしマタイ福音書は、教会が前面に押し出されている福音書で、「教会」という言葉がそのまま出てくる唯一の福音書です。
焦点がイエス・キリストご自身から、教会へと大きく変わっている。ここには肯定的な要素と、非常に危険な要素の両方があります。
私たちのクリスチャンとしての歩みも、教会の教会としてのミッションも、神についての理解も、十字架につけられて死に、神によって再び命へと起こされたナザレのイエスに繋がっています。
マタイの福音書を書いた人は、彼が所属している共同体の生き方そのものが、イエス・キリストを体現していなければならないと考えていました。それは、イエス・キリストを現すことが、教会の存在理由だということです。
日本は「非キリスト教社会」だから、あるいは「反キリスト教的社会」だから、教会の活動から「キリスト教色」をできるだけ消そう。そんなことをすればするほど、教会は塩気を失って、役に立たずに捨てられるものになります。
そして、「教会と同じようなことを、もっと上手くやって、もっと利益を上げているところがあるじゃないか」、という話に必ずなります。
幼稚園や学校やビル経営が、教役者たちの給料を払うために必要な収入源となっている現実に、私は痛みと悲しみを覚えています。
教会が single issue に特化すればするほど、神の国の共同体としてのあり方が失われていきます。特定の問題だけを扱う「事業」になれは、イエス・キリストによって集められた「神の家族」、the Household of Godとしては存在できなくなります。
教会の働きとイエス・キリストとを完全に重ねるマタイ福音書は、教会として失敗して、事業として生き残りの道を探ろうとしている教会に対する、重大な警告だと言えるでしょう。
それは私たちに、教会はイエス・キリストを現すために存在しているのだということを思い出させてくれます。
他方、マタイ福音書の中には、教会とイエス・キリストとの同一視から出てくる、大きな危険もあります。それは、自己絶対化によって、イエス・キリストを歪め、隠してしまう危険です。
17節から20節の、律法に従って歩むことを要求する言葉は、イエス様が語った言葉ではありません。それはマタイ福音書の教会の言葉です。この教会の言葉は、イエス様の教えとも、イエス様ご自身の生き方ともまったく相容れません。
イエス様の周りには、遊女も徴税人もいました。そして「罪人」と総称される、律法に従って歩んでいない人たちがいました。
イエス様が徹底的に批判したのは、自分の周りに集まって来た律法を守らない人たちではなく、「律法に従って歩んでいる者たち」でした。
イエス様にとって、律法に従って生きることを要求する者は、人に負い切れない重荷を追わせて、それを動かすために指一本かさない者でした。
イエス様は、自分は律法に従って正しく歩んでいると思っている者たちを、「白く塗られた墓」に例えて、偽善者として退けました。
ところがマタイ福音書の教会は、イエス様が受け入れたものを退け、イエス様が退けたものを受け入れるようになりました。
これは、教会のメンバーとなったユダヤ人たちが、イエス様のことをユダヤ教の枠組みに引き戻して理解しようとすることから生じる問題で、聖書学者たちが「再ユダヤ教化」と呼ぶものです。
この現象は新約聖書全体に見られますが、マタイ福音書においても非常に顕著です。例えば、マタイ福音書の18章17節は、教会の言うことを聞き入れない者は「異邦人か徴税人」と同様に見なすようにと命じています。
これが端的に示しているのは、イエス様は徴税人を受け入れたけれども、マタイ福音書の教会は徴税人をメンバーとして受け入れることはなかったということです。
私たちは何か新しいものに出会った時、私たちがすでに持っている枠組みに合わせて、物事を理解しようとせざるを得ません。それは、私たちが何をどう知っているかということが、何をどう理解しうるかを決めてしまうということです。
イエス様を知ろうとすることについても、同じことが起こります。新約聖書の中にも、福音書の中にも、イエス様自身の教えとも、生き方とも、相入れない要素があるのはそのためです。
聖マーガレット教会が、イエス・キリストを現す共同体として成長する上で大切なことは、私たちの頭のサイズにイエス様と神様を押し込めるのではなくて、私たち自身が、イエス・キリストによって、神によって変えられることです。
それは、私たちの理解の枠組みが変えられ、広げられ、深められることによって起こることですが、それをなしてくださるのは、助け主なる聖霊です。
聖霊の導きの中で、聖マーガレット教会がイエス・キリストを現す共同体として変容され、成長してゆくことができますように。