大斎節前主日 説教

2月19日(日)大斎前主日

出エジプト 24:12-18; フィリピ 3:7-14; マタイ 17:1-9

教会の典礼歴の中にはTransfiguration、変容貌の出来事に焦点が置かれている日が二つあります。それは今日の、「大斎前主日」と8月6日の “The Transfiguration” 「主イエス変容の日」です。

歴史的には8月6日の「主イエス変容の日」の方が古く、西方教会では1457年に祝日として定められました。そこに新たに ‘Transfiguration Sunday’、「変容の日曜日」が加わったのは、20世紀後半のことです。

この「新しい伝統」を生み出したのは、1950年代から起こった ‘Liturgical Movement’、典礼刷新運動の担い手たちでした。彼らは「灰の水曜日」の直前の日曜日を、顕現節の頂点と位置付け、Transfiguration、変容貌こそ、この頂点を飾るに相応しいと考えました。

1月6日のEpiphany、顕現日から「灰の水曜日」の直前の日曜日までが「顕現節」と呼ばれますが、顕現日はもともと、「イエス・キリストの栄光を現す出来事」を祝う日でした。

しかし、これまでも何度かお話したことがあるように、顕現日に「どの出来事」を「キリストの栄光を現す出来事」として祝うかは、地域ごとにバラバラでした。

代表的に祝われていたのは、イエス様の受洗、東方の博士たちの来訪、そして降誕などの出来事でした。

私は、顕現日に祝われる出来事の中にTransfiguration、変容貌が入っていないのが不思議だなと思っていました。Liturgical Movementに関わった人たちも、同じようなことを考えたようで、その結果として、彼らはこの日曜日を ‘Transfiguration Sunday’ としたのです。

日本聖公会の祈祷書では、この日は「大斎節前主日」となっていて、名目上は大斎節への準備の日曜日と位置付けています。しかし福音書朗読も、代祷も、完全に ‘Transfiguration Sunday’ のintentionであることは明らかです。

さて、今日の福音書朗読が、律法の授与者であるモーセと、最も偉大な預言者エリヤまで登場させ、イエス様の服が白く輝いたと語るのは、神の栄光がイエス様の上に輝いたということを示すためです。

モーセとエリヤは、旧約聖書に登場する人物の中で、もっとも大きな栄光を帰せられる二人と言うことができます。

モーセは、エジプトから約束の地へとイスラエルの民を導き出した指導者であり、神の掟である律法はモーセを通して与えられたとされています。歴史的な言い方をすれば、イスラエルという民を生み出したのはモーセです。イエス様の時代のイスラエル社会には、モーセに勝る権威は存在しませんでした。

他方、エリヤは、850人のバアルの預言者にたった一人で戦いを挑み、偶像崇拝者を滅ぼし、イスラエルを偶像崇拝から清めた英雄です。その「栄光」の故に、エリヤは死を味わうことなく、天に上げられたとまで言われています。エリヤは死なずに天に上げられたという伝説の故に、神が最後の審判を下されるとき、終わりの時に先立って、エリヤを遣わされると信じる人たちも現れました。

イスラエル史上、最も偉大な栄光を帰せられるモーセとエリヤという二人の前で、さらに大きな、圧倒的な栄光が、イエス様の上に現れた。今朝の福音書はそう語っているのです。

旧約聖書の中で最も偉大な栄光を受けた二人の人物、モーセもエリヤもその場から消え去り、そこにはイエス様だけが残されます。そして天からの声は言います。

「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け。」

私たちはもはや、偶像崇拝者を滅ぼしたエリヤに聞くのでも、モーセの律法に聞くのでもなく、ただイエス・キリストに聞くのです。

しかし、私たちが聞き、従うべき主、ナザレのイエスは、この後、十字架にかけられ、殺されます。変容貌の場面は、十字架の痛みと、苦しみと、屈辱と、死の向こう側に現れる栄光を先取りしています。

福音書の記者は、イエス・キリストが受けられた栄光が、十字架の栄光であったことを示すことによって、後にイエスの弟子として歩む者たちにも、同じ運命が待ち受けていることを警告しようとしています。

イエス・キリストの弟子として歩み、神の国の民として生きるなら、私たちも、イエス様に敵対した人たちの敵意に晒されます。

イエス様に敵対した人たち、神の国の福音に反対した人たちというのは、この世の支配者の側にいて、この世で影響力を求める人たちです。それはこの世でうまくやっている人たちであり、この世で成功している人たちです。

私たちがイエスの弟子として歩むなら、この世で成功している人たちから苦しめられ、この世の支配者の敵意に晒される時が必ずやってきます。

もちろん、十字架そのものは喜ばしいものでも、私たちが追い求めるべきものでもありません。私たちは決して、痛みや苦しみを追い求めるべきではありません。苦しみや痛みを賛美する理由など、どこにもありません。

ですから私たちは、苦しみや抑圧を正当化する人々にも、それらを正当化するいかなる言説にも、徹底的に反対しなくてはなりません。

私たちが敵意に晒されることがあるとしても、イエス・キリストの弟子として歩むのは、苦しみが喜ばしいからではなく、神の国の民として生きることには、苦しみを遥かに超えた、この世の与え得ない平和と、喜びと、豊かな命があるからです。

プーチン大統領によるウクライナ侵攻が始まってから、間も無く1年になろうとしています。

この機に乗じて、貧困化が目に見えて深刻化しているこの国で、政府は自衛隊をアメリカ軍と体化させ、軍事費を倍増させようとしています。

気候変動による自然災害も深刻化の一途を辿り、文字通り、この星のあらゆる命が、危機に晒されています。

そのような中で迎える大斎節ですが、私は皆さんに、ただうなだれてこの時を過ごして欲しくはありません。むしろ、このような時だからこそ、イエス様はこの世の命を大いに喜び、そして楽しむ人だったことを再発見して欲しいのです。

この大斎節が、主と共に歩み、主と共にこの世の命を喜び、楽しむ道こそ、この世の与え得ない平和と、喜びと、豊かな命への道であることを再発見する時となりますように。