灰の水曜日 説教

2月22日(水)灰の水曜日 説教

私は自分が属している聖公会という教会の伝統に、非常に愛着があります。私は今も、その伝統から多くの恵みを受け、そして学んでいます。

しかし同時に私は、「伝統」に対して非常に懐疑的であり、「伝統的」という言葉を聞くと、警戒心が発動します。

私は毎年、このレントの期間を迎えるたびに、なんとも言えない違和感を覚えます。その違和感は、教会の「伝統」が、もともとはイースターと何も関係のなかった、四十日四十夜とされるイエス様の荒野の試みを、イースターの準備期間としたことから来るものです。

四十日の試みの後に、イエス様は十字架にかけられたのではありません。福音書の枠組みの中で言えば、イエス様の荒野の試みは、イエス様が述べ伝え、そしてそのために働くことになる神の国を、イエス様ご自身が識別するときであり、神の国の福音を述べ伝えるための準備期間です。

イエス様は、神の国の到来を宣言しました。そして、イエス様にとって神の国は、神がすべての人を招いて、もてなしてくれる大宴会でした。

イエス様にとって神の国は、この死せる体にあって生きる命が終わった後に、死んだ後に現れる何かではありませんでした。イエス様にとって神の国は、遊女や罪人や徴税人たちとのパーティーでした。

しかし、イースターへの準備期間として設定されたレントの伝統は、断食と禁欲と懺悔のときになりました。

こうして、教会が生み出した伝統は、荒野の試みから十字架へと一直線に進むことによって、イエス様の教えと働きと生き方の中心にあった、神の国のこの世的な次元を、すべて覆い隠してしまいます。

そして、3年に渡るイエス様の公生涯を、無意味にしてしまいます。

確かに、私たちの主は、十字架につけられて殺されることになります。しかし、イエス様は、「あれをするな、これをするな。そんなことをしていたら神様に受け入れてもらえないぞ!」そう言っていたから、十字架につけられて殺されることになったのではありません。

イエス様は、この世で、この体にあって生きる命を大いに喜び、そして楽しみました。

イエス様は美味しいものが大好きでした。イエス様はお酒が好きでした。イエス様はパーティーが大好きでした。そして、あまり大きな声では言えませんが、女性が大好きでした。

イエス様の生き方は、スキャンダラスでした。彼は、社会の中心にいる人から、エリートから、「あいつらはしてはならないことをしている。汚らわしい連中だ!」そう後ろ指を刺され、忌み嫌われていた人たちと一緒に食べて、飲んで、歌って、踊って、楽しんだんです。

実は、イエス様が十字架につけられて殺されることになったのは、イエス様はこの世で、この体にあって生きる命を尊び、喜び、楽しみ過ぎたからです。

この世で命を大いに喜び、大いに楽しむ彼のスキャンダラスな生き方の故に、モーセの律法と神殿が支配するイスラエル社会の中で、イエス様は「危険人物」となりました。

イエス様が十字架に付けられたのは、彼の生き方が、この世的過ぎたからです。

しかし、そのイエス様を、父なる神は、イースターの朝、死から甦らせました。

私たちは昨年、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻の直後に、レントの季節を迎えました。今年も、プーチン大統領による帝国主義的侵略戦争の待った中で、私たちはこの灰の水曜日を迎えました。

今もなお、ロシア正教会は、モスクワ総主教のキュリルは、ロシアの侵略戦争に対して、偽りの霊的大義を与え続けています。昨年、プーチン大統領が新たに30万人を徴兵すると発表した直後、ロシア正教会のモスクワ総主教キュリルは、戦場に送られる男たちをこう「激励」しましました。

「行って、勇敢に兵役を果たしなさい。こう心にとめなさい。もしあなたが国のために命を捨てるなら、あなたは神の国で神と共にいることになります。(そこで)栄光と永遠の命を(受けるのです)。」

LGBTQの人々を悪魔扱いし、伝統の価値を掲げ、肉体的なものを蔑んで、霊的なものを讃える「伝統的キリスト教」を掲げながら、ロシア正教会はプーチンの帝国主義的野心によって始められた戦争を、西洋世界の悪の力と戦う正義の戦争として正当化しています。

体に対して魂を、物質に対して精神的なものと霊的なものを讃える「伝統的キリスト教」が、どれほど巨大な悪に手を染めることができるのか。その現実から、私たちは目を逸らしてはならないと思います。

皆さん、このレントの期間に、ぜひ福音書を読み直してみてください。そして、イエス様がどれほどこの世で、この体にあって生きる命を尊び、喜び、楽しんだのかを、再確認してください。

イエス・キリストの生涯と、彼がその到来を述べ伝えた神の国に立ち帰って、その身体性を、物質性を、この世的な性格を、再発見してください。

パーティーをしながら、戦争をすることはできません。すべての人を招いて、共に食べて、飲んで、歌って、踊って、喜び祝う祝宴を目指すコミュニティーが、戦争をすることなどできません。

このレントの時が、身体を嫌悪するキリスト教の「霊性」に代わる、身体と魂、物質と精神という二元論を乗り越える、イエス・キリストの福音の豊かさを再発見する時となりますように。