大斎節第1主日 説教

2月26日(日)大斎節第1主日

創世記 2:15-17, 3:1-7; ローマ 5:12-19; マタイ 4:1-11

皆さんに質問があります。罪は父親から遺伝するのでしょうか?それとも、母親がらでしょうか?

「何か話がおかしい」と思われたとすれば、それは当然の反応です。しかし、いわゆる「原罪論」というキリスト教の教義は、罪が「遺伝」によって普遍化したかのように語ってきました。

実際、ドイツ語では原罪のことを ‘Erbsünde’ と呼びます。親から子に、子から孫に「罪が受け継がれる」という捉え方です。

もう20年以上前のことですが、知り合いのアメリカ人宣教師から、「罪は父親から遺伝するんだ」と真面目な顔で言われて、どう反応して良いのかわからなくなったことがあります。

しかし、彼にとっては、それは伝統的な原罪の教義から引き出される、必然的な帰結でした。「イエス・キリストが原罪を免れているのは、処女から生まれたからである。それは、罪が男から遺伝するということだ」というわけです。

今朝の聖書朗読に指定されている創世記、ローマの信徒への手紙、そしてマタイの福音書の3つの箇所は、原罪論のスタンダード・モデルを提示するための選択だと言っても良いでしょう。

第一朗読は、最初の人、アダムとエバが、蛇にそそのかされて、神が食べてはならないと命じた木、園の中央にある善悪の知識の木から取って食べてしまう物語です。

第二朗読のローマの信徒への手紙5章12節から19節は、第一朗読の物語の解釈として示されます。パウロはそこでこのように語ります。

一人の人、アダムの不従順によって罪が世に入り、その罰として人は死ぬようになった。こうして、罪とその罰としての死は、すべての人の運命となった。しかし、一人の人、イエス・キリストの従順と正しい行いによって、永遠の命への道が再び開かれた。

そして、イエス様が荒野で誘惑を受ける福音書朗読の箇所は、このパウロの解釈に承認を与える役目を果たしています。

アダムは悪魔の誘惑に屈して不従順になり、罪と死をもたらした。けれども、イエス・キリストは悪魔の誘惑に打ち勝ち、父なる神への従順によって、罪人である私たちのために、失われた永遠の命をもたらす道を開いた。

こうして、福音書朗読を軸に、最初の人アダムがもたらした罪と死と、第二のアダムであるキリストがもたらした義と命が、シンメトリックに対置されています。

ところで、言うまでもないことですが、イエス・キリスト以前のイスラエルの人々も、世界に悪があり、人が悪を成すことを知っていました。

しかし、旧約聖書のどこにも、罪や悪の起源として「アダム」を引用している箇所はありません。旧約聖書のどこにも、アダムが神に逆らったために、すべての人が死ぬことになったと語る箇所はありません。

そして何よりも、善悪の知識の木から取って食べたからと言って、神と人との関係が崩壊したわけでもありません。神は引き続き人に語り続け、人は神に応答し続けます。

「創世記」という書物は、「トーラー」と呼ばれる五つの書物の一つです。「トーラー」に収められている書物を書いた人々も、バビロン捕囚以降に旧約聖書を編纂した人々も、人は神の掟に従うこともできるし、それに逆らうこともできることを前提にしています。

彼らは「悪の起源」を問うことも、「死はどこから来たのか」と問うこともありませんでした。

しかし、イスラエルの人々がヘレニズム文化と接するようになり、ギリシアの知恵から影響を受けて、ユダヤ教の中で知恵文学が生まれると、物事の「起源」への関心も生まれたようです。

そして、紀元前2世紀、あるいは1世紀のユダヤ教知恵文学の中で初めて、アダムを罪の起源とし、アダムによって死がもたらされたという解釈が生まれました。

例えば、第二聖典の『ソロモンの知恵』2:23, 24節にはこのように書かれています。

「神は人間を不滅の者として創造し/ご自分の永遠性の似姿として造られた。死は悪魔の妬みによってこの世に入ったのであり/悪魔の仲間となった者は死を味わう。」

しかし、アダムが罪の起源であり、アダムの罪の罰として、すべての人が死ぬようになったという「解釈」は、律法に従って神の祝福を受けようとするユダヤ教と相入れません。

ですから、この解釈はユダヤ教内部でほとんど受け入れられませんでした。ユダヤ教にはキリスト教の原罪や堕罪の教義に当たるものは無く、むしろそれを完全に否定していることからも、このことは明らかです。

イエス様もアダムに一言も言及していません。新約聖書の中で、イエス・キリストによる救いととアダムの罪をパラレルにして語っているのは、パウロだけです。

ではパウロは、ローマの信徒への手紙5章の中で、何をしようとしているのでしょうか?

パウロは、イエス・キリストがすべての人のために神が備えられた救いの道であると言うためのレトリックとして、全人類の始祖として創世記に登場する神話的人物、アダムを使っています。

しかし皮肉なことに、キリスト教教義の歴史的発展の中で、あまりにも洗練されたパウロのレトリックは、人々の関心を、イエス・キリストから、罪の起源としてのアダムに向けさせることになりました。

イエス・キリストは、神がすべての人に恵みと慈しみを注ぎ、すべての人を受け入れてくださっていることを示してくださいました。

しかし巧みなパウロのレトリックは、救いの普遍性から、罪の普遍性へとポイントをずらしてしまいました。

イエス様がアッバと呼んだ神は、罪人や徴税人や遊女との親しい交わりの中に、彼らとの宴会の中に現れる神でした。教会は、神がすべての人を慈しみ、愛し、救ってくださっていることを、福音として告げ知らせます。

神がすべての人を愛して救ってくれるているなら、宣教なんかしなくてもいいんじゃないか?もし、そう思われているとしたら、それは違います。

福音を聞かなければ誰も、「私」をも慈しみ、愛し、恵みを注ぎ、救われる神を知ることができません。

そして何よりも、私たちが福音を告げ知らせるのは、福音を聞いて、神の国に仕える者へと変えられる人たちを、Jesus Movementの担い手を生み出すためです。

神の愛と恵みと慈しみを受け、救われていることに気づいたとき、私たちの内に感謝が溢れ、その感謝が、私たちを絶えざる回心へと導きます。この感謝に基づく絶えざる回心を通して、私たちは神の国のために仕える者へと変えられてゆきます。

私たちは、「悔い改めたから」、神の憐れみを受け、赦され、神に受け入れられたのではありません。

「私はイエス・キリストを信じたから」、罪が赦され、神に受け入れられ、神に愛されている。しかし「悔い改めてキリストを受け入れていないあの連中は、神に退けられ、滅びに定められている。」

そう考え始めたとき、私たちはイエス様が退けた嫉妬深い報復の神を、敵を滅ぼす神を、裏口から教会の中に招き入れることになります。

私たちがこの誘惑に気づき、これを退け続けることができますように。むしろ、すべての人に注がれている神の愛と慈しみと救いの恵みの中に、「私」も入れられていることへの感謝によって、「私」が変えられ、神の国の忠実な働き人とされますように。

共に祈りを献げましょう。