










3月5日(日)大斎節第2主日
創世記12:1-8; ローマ4:1-5,13-17; ヨハネ3:1-7
先週の日曜日、11時からの礼拝後に、第1回目の大斎研修がありました。初回は牧師が担当するようにと言われたものの、何を話したものかと色々と悩んだ末、 ‘How not to Read the Bible’ 「聖書をどう読むべきでないか」というテーマで話をしました。
そこで私が語ったことは、間違った想定と態度をもって聖書を読むことによって、大きな危険と暴力が生まれるということでした。
聖書を使って正当化できないものは何も無く、「聖書に書いてあるから」というのは、何の根拠にもならないんだ。私がそう語るのを聞いた一人の青年が、実は私の長男ですが、こう質問をいたしました。多少不正確かもしれませんが、大体、このような趣旨の質問でした。
「聖書を間違って読んで、間違ったことを正当化するということは確かにあるけれども、じゃあ、これは正しい、これは間違っていると判断するための確実な、絶対的な基準は何か」
私はその質問を聞いて、とても良い質問だと思うと同時に、私が歩んできた信仰の道を、彼も辿っているのかもしれないと感じました。
私が洗礼を受けて信仰生活を始めた教会は、「聖書は誤りなき神の言葉」であるという主張を、絶対的真理として掲げる教会でした。
「聖書に収められた66巻の書物は、すべて聖霊の導きによって書かれたのであり、いかなる過ちをも免れているのだ。」
非歴史的で極端に矮小化されたこのプロテスタント正統主義の立場は、19世紀以降の社会の近代化と、自然科学を始めとする近代的学問への反動として生まれました。
聖書の無誤・無謬性を掲げる教会で信仰生活を始めた私は、「自分は絶対的な真理を手にしたのだ」と本気で信じていました。そして、絶対的な真理を知らされた自分の使命は、この真理を弁明することだと思い、Francis Schaeffer という人の書物を貪るように読みました。
Francis Schaeffer という人は当時、福音派を自称する世界中の fundamentalists から、「最も理性的で、最も知的なキリスト教弁証家」として崇められている人物でした。彼の弁証論の中身は、陰謀論やカルトの教義と変わらない、完全に閉じた体系ですが、当時の私には、それを識別できるほどの批判的知性はありませんでした。
聖書の無誤・無謬性を掲げ、Francis Schaeffer の弁証論を武器として、人々をイエス・キリストへと導くことを夢見ながら、私は最初の神学校での学びを始めました。
しかし、3年生になり、卒論でトマス・アクイナスという神学者を扱うことにしたあたりから、私は「絶対的に正しい信仰」から、次第に逸脱し始めました。
「聖書」という書物をめぐるローマ・カトリックとプロテスタントの論争ついて読み始めて間も無く、「聖書の上に教会は立つ」というプロテスタント正統主義の立場は、歴史的に保持し得ないことに気づくことになりました。なぜなら、使徒時代の教会には、新約聖書はおろか、福音書すら存在していなかったからです。
「聖書が無くても教会は存在していた」。この極めて単純な歴史的事実に、それまでまったく考えが及ばなかったことに、自分で驚きました。
この時から私は、「絶対的に正しい信仰」を支えていた、「聖書は誤りなき神の言葉だ」という主張からも、「教会は聖書の上に立つ」という主張からも距離を置くようになりました。
教会と聖書との関係を問い直し、聖書をどう読むべきかを考え直したいとの思いから、最初の神学校を卒業後、私は上智大学の神学部に進みました。
在学中、大学の講義とはまったく関係無かったのですが、いつか読まなければと思っていたある本を、勇気を振り絞って手にしました。それは20世紀の最も偉大な聖書学者の一人である、 James Barrという人が書いた Fundamentalism というタイトルの本です。その中で、私が薄々勘づいていたことが、ほとんどすべて言語化されていました。
James Barrとの出会いを通して、私は聖書の無誤・無謬性を掲げる教会を離れることになったわけですが、2021年の1月以降、私は改めて彼の著作を読み直すことになりました。
そのきっかけになったのは、聖書は誤りなき神の言葉だと主張する福音派クリスチャンの支持を受けて、ドナルド・トランプが大統領となったことでした。
改めて James Barr を読み返しながら、私は自分の「回心」が、まだ十分に徹底的なものでなかったことに気付かされました。
今朝の第一朗読の中で、神はアブラムに向かって、「あなたは生まれた地と親族、父の家を離れ私が示す地に行きなさい」と命じます。
アブラム、後のアブラハムが、生まれ故郷と家族・親族を捨てて旅を始めた時、彼は書物に導かれて旅を始めたわけではありません。アブラハムは旧約聖書を知りません。彼が旅立ったとき、旧約聖書に収められている書物のどれ一つとして存在してはいませんでした。
しかしアブラハムは神と共に、そして神を探し求めながら、旅を続けました。彼の歩みの一歩たりとも、書物に導かれたわけではありません。
イエス様も、ペトロも、異邦人の使徒パウロも、新約聖書という書物を知りません。パウロがローマの信徒への手紙を書いている時、福音書と呼ばれる書物のどれ一つとして存在してはいませんでした。
イエス様の教えも、働きも、生き方も、旧約聖書に導かれていたわけではありませんでした。もし彼の生き方が、律法の書物に導かれていたのなら、彼が十字架につけられて殺されることはなかったはずです。
アブラハムの歩みも、イエス様の歩みも、ペトロやパウロのような使徒たちの歩みも、そして使徒時代の教会の歩みも、「無誤・無謬の書物」によって導かれたことなどありません。
聖書の「中」に登場する者の誰一人、「これに従って進めば絶対に迷わない信仰の地図」も、「この通りに行動したら正しく生きられる信仰のマニュアル」も持ってはいませんでした。「聖書」という書物が「完成」した後の私たちも、実はアブラハムと同じ旅を、イエス・キリストと共に続けているのです。
「聖書」という書物は、「私たちがするべきこと」を示したマニュアルではありません。恩師の言葉を借りれば、聖書という書物は、代々引き継がれてきた家族アルバムのようなものです。
アルバムに貼られた一枚一枚の写真には、それぞれの物語があります。アルバムの写真の中には、喜びの物語も、悲しみの物語も、恥ずべき物語も、残虐な物語すらあるでしょう。
日露戦争で何十人もの敵を殺して英雄として表彰されたひいお爺さんの写真を見ながら、「あなたも沢山の敵を殺せる勇敢な軍人になるのよ」と語ることもできます。
「ひいお爺さんは戦争で沢山の人を殺して英雄だと言われたけれど、本当は戦争なんかあっちゃいけない。私たちは、戦争をするような人間を政治家として選んじゃいけない」と語ることもできます。
アルバムの中の写真のどれも、どちらの「語り」が正しいのかを示してはくれません。けれども、アルバムの一枚一枚の写真が背負う物語と向き合うことを通して知恵を見出し、「進む道」を選ぶことはできます。
聖書と向き合うのも、同じことです。聖書の中に、「絶対的に正しい箇所」とか、「これに従えば、どんなことでも正しく判断できる1節」なんてものはありません。
私たちは、イエス・キリストという知恵を求めながら、イエス・キリストを通して神を知ることを求めながら、聖書と対話をします。
イエス・キリストという知恵に私たちを導くのは、「どこにでも吹き」、「どこからやって来て、どこへ去っていくのか」わからない聖霊です。
この霊に導かれながら、「絶対的正しさ」や「確実性」への誘惑から解放されていくことの中に、自由と喜びと希望を見出していくことこそ、イエス・キリストと共に歩む、私たちの旅です。