
3月8日(水)中高礼拝 説教 ヨハネ3:1-8
先日、この3月でこの学校を卒業する一人の生徒と洗礼準備をしていたとき、彼女がこう質問をしました。「旧約聖書の中にある詩篇って、何の目的で書かれたんですか?」
実は、この質問に対する「正しい答え」はありません。しかし彼女の質問は、人間という存在の、人としての命の、もっとも深い神秘を指し示しています。そして、今朝読まれたイエス様のことばも、この人間存在の神秘について、私たちに語っています。
イエス様は、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言います。「
神の国を見る」。それは人の命という木が成長し、花が満開になって、最も美しく咲き誇った状態です。人生が喜びに満ち溢れることです。
しかし、人生という木が大きく成長し、美しい花を開き、喜びの実を結ぶためには、人は新しく生まれ続けなくてはなりません。
この新しく生まれるプロセスを導いてくれるのは、思いのままに吹いて、どこから来て、どこへ行くかわからない霊、イエス・キリストが神のもとから遣わしてくださる聖霊です。
そして、自由気ままに吹く霊に導かれて、神の国を見る人になるということは、「遊び」の中にこそ、人としての命があるということを学ぶということです。
生物学的な命を維持するためには必要がないのに、「喜び」を求めてすることを「遊び」と言うとすれば、人の命は、生活は、すべて「遊び」の中にあります。
ただ生物学的な命を保つためであれば、私たちがしていることのほとんどすべては、不必要で無駄です。
「詩篇は何の目的で書かれたのか」という質問に対して、「このために」という答えが無いのは、詩作という行為は、うたうことは、「遊び」だからです。
生物学的な命を保つための栄養摂取ということであれば、適度に栄養バランスの良い食材をミキサーにかけて、毎回飲めばよいことです。手間暇かけて料理をして、味付けをして、綺麗にお皿に盛り付けるなんてことは、手間と、時間がかかるだけで無駄です。
音楽とかスポーツなんてものは、無駄の極地です。毎日毎日、何時間も練習をして、ピアノや、フルートや、ギターや、チェロを弾けるようにならなくたって、誰も死にません。歌を歌わなくたって、生物学的な命はちゃんと維持できます。
もちろん、ボールを蹴り回してゴールに入った回数を競ったり、寒い雪山でわざわざ坂を登って、板に乗って滑り降りてきたり、リズムに合わせて複雑怪奇な動きをしなくても、生物学的な命を保っていられます。
言語も必要ありません。人間以外のすべての動物は、言葉を話さずに、立派に生きています。
生物学的な命を保つことが目的であれば、そもそも学校に来ることも、学校で学んでいることも、すべて無駄です。猿も犬もイルカも、数学や、物理学や、生物学や、化学なんか勉強しなくても、何不自由なく生きています。
け・れ・ど・も、生物学的な命を保つために不必要なものを、み~んな捨て去ったとしたら、「人生」はまったくの空虚です。言葉も、歌も、踊りも、料理もない生活には、なんの喜びもありません。
今日は今年度、私が皆さんにお話をする最後の機会ですが、ぜひこのことを覚えていてください。
人間としての命は「遊び」の中にあります。「遊び」の中に喜びがあります。「遊び」の中にこそ、自由と創造力 (creativity) があります。
だからイエス様が語る神の国は、神と人と世界が手を取り合って祝い踊る、宴会として現れるのです。
この学校で毎朝行われている、神に向かって祈り、神を讃美するという営みも、実は「遊び」です。
それは人間と他のすべての動物とを最も大きく隔てる行為であり、そこには人間の自由とcreativityが最も大きく花開いているのです。
皆さん、自由気ままに吹く霊に導かれて、神の国を見る人に、真剣に遊べる人になってください。