














3月12日(日)大斎節第3主日
出エジプト 17:1-7; ローマ 5:1-11; ヨハネ 4:5-26, 39-42
今読まれたヨハネ福音書の物語の内容は、1世紀のユダヤの人々にとっては、とてつもなく衝撃的で、驚くべきものです。
福音書を読んでいると、イエス様の周りには沢山の女性がいて、女性とイエス様が話をしている場面も沢山あります。ですから私たちは、それが「普通のこと」だと思うかもしれません。
しかし、イエス様が宣教活動をしていた時代、イスラエル社会の中では、公の場で、あるいは人前で、男性が女性と話をするということは、非常にスキャンダラスなことでした。
基本的に、女性は「公共の場」にいてはいけない存在で、公共の場にいる女性は遊女だけでした。「良いユダヤ人女性」のいるべき場は家であり、女性に期待されていることは、結婚し、子どもを産み、料理をし、家事をすることだけでした。
女性には聖書を学ぶことも許されていなかったので、イエス様の時代、「先生」と言われる人が女性を弟子にするということは絶対にありませんでした。ですから、イエス様が井戸端で女性と一対一で話をしているというだけでも十分スキャンダラスで、あってはならないことでした。
物語をさらに衝撃的なものにしているのは、イエス様が話している女性がサマリア人だったということです。
ユダヤ人もサマリア人も「イスラエルの民」に属していて、同じ神様を信じていました。しかしイスラエルの王国は、ソロモン王の後、紀元前922年に、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂します。それ以降、二つの王国の間には激しい敵意が生まれ、戦争になることすらありました。
歴史の流れの中で、北のイスラエル王国も南のユダ王国も滅びてしまいます。ところが、二つの王国が滅んだ後も、南ユダ王国の末裔であるユダヤ人と、北のイスラエル王国の末裔であるサマリア人との間の敵意は消えず、互いに憎しみ合う関係が、イエス様の時代にも続いていました。
ユダヤ人たちは、「サマリア人は異教徒たちと混血して汚れた者となった。もはや連中は神の民ではない。」そう思っていました。
もちろんサマリア人の側でも同じようなことを思っていました。彼らは、「ユダヤ人は神の掟を自分たちの都合のいいように書き換えて、神に逆らって生きている。連中は神の民ではない」、そう考えていました。
ユダヤ人とサマリヤ人が友だちになるなんてことは、絶対にあり得ないことで、そもそも、ユダヤ人とサマリア人の間には、一切コミュニケーションが無いのが普通でした。言うまでもないことですが、ユダヤ人とサマリア人が、同じ道具を使うとか、同じ食器を使うということも、まったくあり得ないことでした。
ですから、民族的にはユダヤ人のイエス様が、「サマリア人に」、しかも「サマリア人の女性に」、「水を飲ませてください」とお願いをしているというシチュエーションは、とてつもなく衝撃的で、まったくあり得ない展開なのです。
しかし、本来あり得ない、まったく想定外の、イエス様とサマリアの女性との会話の中で、さらに驚くべきことが起こります。
怪しげなユダヤ人の男が発したこの言葉が、サマリア人の女性の警戒心を、渇望へと変えました。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。14 しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」
サマリア人の女性は、このユダヤ人の男が語っている渇くことのない水を、何としても手に入れたいと思うようになりました。「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください。」もちろん、ここで彼女が欲しいと思っている「その水」は、普通の水が無限に出てきてくれる、魔法の携帯井戸のようなものです。
彼女が井戸まで水汲みに来たくなかったのは、単に重労働で、面倒臭いからではありません。その理由は、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」という、まったく唐突なイエス様の要求によって明らかになります。
サマリアの女性が、自分に夫はいないと答えると、イエス様がこう言います。「18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたの言ったことは本当だ。」
5回の結婚の後、今は夫ではない男性と一緒に暮らしている。これが、彼女が水汲みに行きたくない、人に会いたくない理由でした。イエス様が話しかけたサマリア人の女性は、「悪名高い女」で、サマリア人社会の中にも、彼女の居場所は無かったのです。
しかし奇跡が起こります。彼女の「してきたこと」をすべて言い当てた男は、自分がメシアだと告白します。その時、サマリア人の女性は、「自分のすべてを知っているこの男こそ、とこしえに乾くことのない水なんだ」ということに気づきます。
彼女は命を吹き返します。悪名高く、「罪の中に生きている」と後ろ指を指され、人目をはばかりながら、まるで存在しないかのように生きてきたサマリア人の女性が、ユダヤ人のイエス様を、永遠の命に至る水として、メシアとして受け入れました。
そして、永遠の命を生き始めた彼女は、自分のことをすべて知っている、このユダヤ人の男がメシアなのではないかと、他のサマリア人たちに向かって証をします。そして、彼女の証を通して、多くのサマリア人がイエス様に出会い、メシアとして受け入れました。
一人のサマリア人女性から始まって、多くのサマリア人が、イエス様を救い主として受け入れ、キリストの弟子となった。ここで起きていることは、人間的に言えば、「絶対に不可能なこと」です。
イエス様は、千年に渡って続く敵対関係を終わらせ、互いに憎しみ合っていた者たちを、ユダヤ人と弟子たちとサマリア人の弟子たちを、家族として、食卓に着くことができるようにされたのです。
イエス・キリストは、絶対に出会うことのなかったはずの人たちを出会わせ、絶対に友だちになり得なかった人たちを、一つの家族とすることができる方です。
イエス様との出会いによって、自分の中のどのような必要に、どのような乾きに気づくことになったのか、そしてその渇きがどのように潤されることになったのかを語ることが、その話を聞いた人をイエス様のもとへと導くことになります。
どうか皆さんのイエス・キリストとの出会いを、人々と分かちあってください。
主が、私たち一人一人を、「渇くことのない水」の湧き出す井戸としてくださいますように。